[CONTENTS]
古図面、古写真の検証および三菱地所社史[1]から、丸の内の主要建築のファサードデザインは、以下に挙げる大きく5つの時代に区分することができる。それぞれの時代における技師・技師長、構造形式、建築潮流等を追いながら、ファサードデザインの特徴について記述していく。
第1期 | 「第1号館」─「第13号館」 | 1894─1911(明治27─44)年 |
第2期 | 「第14号館」「 第21号館」 | 1912─1914(明治45─大正3)年 |
第3期 | 「第23号館」─「丸ノ内ビルヂング」 | 1915─1923(大正4─12)年 |
第4期 | 「仲28号館」─「新丸ノ内ビルヂング」 | 1929─1952(昭和3─27)年 |
第5期 | 「大手町ビルヂング」─「三菱ビルヂング」 | 1958─1971(昭和33─46)年 |
[1]『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史 上巻、下巻、資料・年表・索引』(三菱地所、1993[平成5]年)
第1期における特徴は、「クイーン・アン様式」のファサードデザインである。
「第1号館」(1894[明治27]年竣工)から始まる丸の内の建築は、石とスタッコによるネオ・ルネッサンス様式の「第2号館」(1895[明治28]年竣工)を除き、「第13号館」(1911[明治44]年竣工)まで、2階や3階建ての規模の違いはあるものの、赤煉瓦と帯石、隅石を用いた「クイーン・アン様式」のファサードデザインが踏襲された。
「第1号館」および「第2号館」の設計はジョサイア・コンドル(1852─1920年)、「第3号館」から「第7号館」を曾禰達蔵(1852─1937[嘉永5─昭和12]年)、「第8号館」から「第13号館」は保岡勝也(1877─1942[明治10─昭和17]年)が担当した。
また、同時代のヨーロッパにおいては、アール・ヌーヴォーやアール・デコ、セセッション等、古典様式以外の新しい建築様式の潮流が出現し、構造形式は煉瓦造に代わり鉄筋コンクリート造の技術が発展した。シカゴやニューヨークでは鉄骨造とエレベータ技術等の発展に伴い高層のアメリカン・オフィススタイルが相次いで誕生した。一方、わが国においては、いまだ建築様式の習得段階であり、新しい潮流の出現には次の時代を待たなければならなった。
第2期における特徴は、様式的装飾が抑えられたファサードデザインである。
「第14号館」(1912[明治45]年竣工)から「第20号館」(1912[大正元]年竣工)までのファサードデザインは、第1期の「第13号館」までの「クイーン・アン様式」をまとった華麗な建築と比較すると、窓枠や出入口回りに装飾的要素が見られる程度で非常にあっさりしている。化粧煉瓦貼りの煉瓦造風ファサードでありながらも、装飾的要素が極端に少ないことから、導入されたばかりの鉄筋コンクリート造を用いた様式的装飾表現が相当に困難であったと言えるのではないだろうか。
一方、交差点に面した建物の出入口上部には各々ドーム形状の屋根がある等、交差点に対し建物角を強調するデザインが見られる。交差点に向かい合う建物角を強調するファサードは、保岡の時代にのみ出現していることから彼のデザイン・ボキャブラリーであったに違いない。
このような試行錯誤を経て、「第21号館」(1914[大正3]年竣工)に結び付くのである。「第21号館」のファサードデザインは、これまで
よりも大きな開口の三連窓とし、帯石や付柱等の装飾が施された「クイーン・アン様式」が復活した。これは、鉄筋コンクリート造における様式的装飾表現の技術が習熟してきたものと推測できる。また、交差点角部にあるドームを伴った円筒形状の塔のファサードからは、保岡の手による痕跡を見ることができる。
第3期の特徴は新しい様式の開花である。
これまで「クイーン・アン様式」一辺倒であったデザインに代わりこの第3期では、セセッション様式、ルネサンス様式、アメリカン・オフィススタイル等、多様な様式のファサードデザインが展開された。煉瓦造による赤の時代から化粧煉瓦貼り・モルタル塗りの白の時代に変貌した。
例えば、「第22号館」(1918[大正7]年竣工)以降、「第27号館」(1919[大正8]年竣工)までの建築は当時ヨーロッパで流行したセセッション様式であり、「仲2号館」(1919[大正8]年竣工)の暗色化粧煉瓦貼りの例外を除き、そのファサードはほとんどが白に近い明色の仕上げとなっている[2]。
また、「帝国鉄道協会会館」(1916[大正5]年竣工)はルネサンス様式、「三菱合資会社銀行部」(1922[大正11]年竣工)はアメリカ銀行建築の特徴である巨大オーダーが並ぶファサードデザインである。
第3期の集大成といえるのが「丸ノ内ビルヂング」(1923[大正12]年竣工)である。ファサードは三層構成、列柱なしの装飾が抑えられたネオ・ルネサンス様式が採用され、四角い箱形のアメリカン・オフィススタイルとなっている。
これらの新しい様式の開花は、保岡の退社後(1912[明治45]年)に桜井小太郎(1870─1953[明治3─昭和28]年)が入社(1913[大正2]年)することで始まった。桜井の影響により丸の内建築に世界の多様なファサードデザインの新たな潮流がもたらされたと言えよう。
第4期の特徴は黎明期のモダニズムにおけるゆらぎ(試行錯誤)である。
昭和に入り、「八重洲ビルヂング」(1928[昭和3]年竣工)が建設された。三層構成とし、最上階の窓の半円アーチや角部の塔の装飾を見ると丸の内建築において初のロマネスク様式を基調としたことが分かる[2]。桜井の跡を継いだ藤村朗(1887─1953[明治20─昭和28]年)は、「八重洲ビルヂング」において前技師長桜井のセセッション様式やアメリカン・オフィススタイルから脱却し、ロマネスクという新たな様式的要素をここで展開させたかったのではないだろうか。
一方、終戦後に建設された「新丸ノ内ビルヂング」(1952[昭和27]年)は「丸ノ内ビルヂング」と同じ箱形であるが、装飾がほとんど排除されたポツ窓形式のモダニズム建築であった。
世界に目を向けると、1925(大正14)年にパリ万国博覧会(アールデコ展)が、1928(昭和3)年にCIAM(近代建築国際会議)が開かれ国際的なモダニズム(近代建築)運動による新たな建築理念が確立され、機能主義的・合理主義的かつ装飾のない建築の時代が幕開けした。しかし、わが国では昭和恐慌や第二次世界大戦の影響による建築行為の中断があり、丸の内建築における本格的モダニズム事務所建築の出現は戦後の「新丸ノ内ビルヂング」まで待つ必要があったと言えよう。
[2]百川美彩、山﨑鯉介、野村和宣「三菱合資会社地所部が丸の内に建設した鉄筋コンクリート造建築の外装材の用い方」(東京工業大学 卒業論文梗概集、2020[令和2]年3月)
第5期の特徴はモダニズム事務所建築への変化、移行である。
「大手町ビルヂング」(1952[昭和33]年竣工)の竣工以降、丸の内建築はすっかりモダニズム事務所建築に変貌していった。高度経済成長期中の1959(昭和34)年に「丸ノ内総合改造計画」が始まり、街並みの主役であったクイーン・アン様式やセセッション等の建築から、次々とモダニズム事務所建築に建て替えられ、「三菱ビルヂング」(1973[昭和48]年竣工)までに、新築・増築合わせて37棟が建設された。
これらのファサードデザインには次の傾向がある。初期における柱梁の軸組み(梁勝ち)デザインから、中間期における横連窓、そして後期のアルミカーテンウォールへと変遷していった[3]。これは、鉄筋コンクリートによるヨーロッパ建築の潮流に代わり、鉄とガラスを主体とするアメリカ高層建築の潮流の影響を受けたことが主な要因と考えられる。
[3]藤瀨雄登、鰺坂徹、増留麻紀子、野村和宣、江島知義、住谷覚「丸ノ内総合改造計画に関する研究-三菱地所の設計グループのデザイン特徴について-」(日本建築学会 九州支部研究会 報告集 歴史意匠 pp.593、2019[令和元]年3月)
今回の考察を通じ、「第1号館」から始まった丸の内建築におけるファサードデザインは、構造形式等の建築技術イノベーション、時勢の要求やデザイン潮流の変化、歴代の技師・技師長のデザイン志向の影響を受けながら変遷してきたことが明らかとなった。
[PROFILE]
須藤 啓すどう ひろむ
1964年 | 東京都生まれ |
1988年 | 日本大学理工学部建築学科卒業 |
1990年 | 日本大学大学院理工学研究科 建築学専攻修士課程修了 |
1990年 | 三菱地所入社 |
2001年 | 三菱地所設計 |
現在 | 三菱地所設計 北海道支店 副支店長・ユニットリーダー |
住谷 覚すみたに さとる
1975年 | 東京都生まれ |
1998年 | 日本大学理工学部建築学科卒業 |
2000年 | 日本大学大学院理工学研究科 建築学専攻修士課程修了 |
2000年 | 三菱地所入社 |
2001年 | 三菱地所設計 |
現在 | 三菱地所設計建築設計四部 兼 TOKYO TORCH設計室 チーフアーキテクト |