130th ANNIVERSARY

Youtube

三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973 三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973

丸の内の光景著者/藤森照信|建築史家

上に建つ建物のことは知っていても、下の土地についての事情を知る人はほとんどいない。建築と都市の歴史をもっぱら調べてきた私でも、神田の江戸時代から続く老舗そば店の土地が不動産会社からの賃貸とは知らなかったし、その時期をたずねると、答えは「江戸時代のことだから分からない」。

28年前の『新建築1992年4月別冊 日本現代建築家シリーズ15 三菱地所』に、「丸の内をつくった建築家たち─むかし・いま─」を書いた時は、もっぱら戦前に的を絞ったから、このたび再び三菱地所を扱うにあたり、戦後を中心としようと考えた。そして、丸の内の戦後のビルのある時期までの平面図を見てひとつのことを思った。基本的に戦前の到達点を踏襲している、と。

丸の内のオフィスビル

戦前、日本のオフィスビルは丸の内がリードした。1894(明治27)年、「第1号館」によってイギリス式の棟割形式からスタートし、1913(大正2)年、「第21号館」によってイギリス式の棟割賃貸からアメリカ式のエレベータ付きのフロア貸し(床貸式)へと変わり、さらに1923(大正12)年の「丸ノ内ビルヂング」、通称「丸ビル」の建設にあたり、アメリカの超高層ビルであるスカイスクレイパー(摩天楼)の建設技術を導入する。

地所が「丸ビル」建設にあたり、当時の世界でもアメリカのシカゴとニューヨークにしか存在しなかったスカイスクレイパーの建設技術を導入しようとしたのは、工期の難題を克服するためだった。「丸ビル」建設に先立ち、それまでの人力だけによる工事で試算すると18年もかかることが分かった。ところが、スカイクレイパーに学び鉄骨を骨組みとし軽量の中空煉瓦を積んで壁とし、仕上げにタイルかテラコッタを貼り、加えて工事の機械化と工事管理のシステム化を導入するなら、「丸ビル」の大きさでも30カ月(2年半)で実現可能。18年が2年半。日々の賃料で成り立つオフィスビル業にとってこれほどの朗報はない。

三菱地所の建築家たち

それまで三菱地所は、と言うより正確には三菱と岩崎家は、ビルであれ首脳部の邸宅であれ建築をつくるにあたっては“お抱え建築家”にコスト管理を含めて任せることを旨としてきた。それがコンドル(1852─1920年)に始まり、曾禰達蔵(1852─1937[嘉永5─昭和12]年)、保岡勝也(1877─1942[明治10─昭和17]年)、桜井小太郎(1870─1953[明治3─昭和28]年)へと続く三菱の建築家のならいであった。しかしこうしたならいが一般的ではなかったことは、例えば三井の場合、そのようなお抱え建築家はいなかったことから分かる。三菱のやり方は住友へも伝わり、住友も地所と似た建設体勢を採り、現在の日建設計は住友の設計部門を源流とする。

しかし、「丸ビル」建設にあたり、すべて自社内で行うやり方は止め、設計と設計監理は地所でやるが、施工はニューヨークきっての施工会社フラー社に託すことが決まる。

意匠は桜井小太郎、構造は山下寿郎(1888─1983[明治21─昭和58]年)が担当して「丸ビル」の設計は終わり、フラー社から来日した20人のアメリカ人の指導の下、順調に工事は進み、1923(大正12)年、無事、竣工する。

東京の記念碑「丸ビル」

1894(明治27)年の「第1号館」に始まり1923(大正12)年の「丸ビル」まで29年間の短期間に、イギリス式からアメリカ式まで世界のオフィスビルの先端を学び、習得してきたが、しかし、そのピークを画す「丸ビル」において、地所と地所の建築家は手痛い挫折を味わう。

竣工したばかりの「丸ビル」は、関東大震災(1923[大正12]年9月1日)で被害を受ける(正確には、大震災前の地震で被災し、その復旧後に再被災)。鉄骨は大きく揺れて変形し、耐力を持たない中空煉瓦壁は崩れ、オフィスビルとしては使用不能に陥った。

桜井・山下は設計にあたり初のことゆえフラー社の指導を受けていたが、フラー社の指示するハリケーン対応強度の鉄骨があまりに細く、日本の地震用としては大きな不安をぬぐえなかった。その不安をフラー側に伝え、訂正しようとしたものの、ニューヨークでの打合せの時、意思疎通ができなかった。もし意思疎通が実行されていたとしても通じたのは意思だけで、フラー社が日本側の求める太い鉄骨を送ってこなかった可能性が高い。なぜなら、同じことが同時に同様に進行していた「丸ビル」の隣りの「郵政ビル」(設計:曾禰中條建築設計事務所、1923年[大正12]年竣工)でも起こり、日本にニューヨークから届いて陸揚げされた設計図より細い鉄骨を前に、構造設計担当の内田祥三(1885─1972[明治18─昭和47]年)があまりのことに激怒しているからだ。

使えなくなった「丸ビル」は、鉄骨を鉄筋コンクリートで包み、中空煉瓦は鉄筋コンクリート壁に変え、新たに耐震壁を入れ、やっと再開している。そして、桜井と山下は責任を取り地所を去った。桜井は設計事務所を開き、山下はニューヨークを手本とする本社(現「三井本館」、1929[昭和4]年竣工)を計画中の三井へと移っている。

巷間、「組織の三菱、個人の三井」と言われているが、桜井も山下もこのようにして組織に対しての責任を取った。

「丸ビル」の建設は、地所と地所の建築家にとっては困難な出来事であったが、しかし、世間は東京駅前を飾る大型ビルとして認め東京の記念碑となり、その後「東京ドーム」(1988[昭和63]年竣工)が誕生するまで、量の大きさを言うのに「丸ビル〇杯分」と表現するようになる。

建築界への影響は決定的で、18年(216カ月)を30カ月へ、単純計算すると工期を1/72に短縮できるという奇跡のアメリカ施工技術を学ぶべく、建設業者は調査団を派遣し、また建築家たちもヨーロッパからアメリカへと目を振り向けるようになる。とりわけ大阪に本拠を置く渡辺節(1884─1967[明治17─昭和42]年)と若き所員の村野藤吾(1891─1984[明治24─昭和59]年)は、渡米して熱心にアメリカの技術とプランとスタイルを学んでいる。

「丸ビル」の後、世界恐慌(1929[昭和4]年─)と第二次世界大戦(1939─1945[昭和14─20]年)と続き、日本でも新しいタイプのビルはつくられなくなり、こと大型オフィスビルについて言うなら、「丸ビル」が最後の花となった。

オフィスビルの到達点

ここでオフィスビルというビルディングタイプがイギリスに始まりアメリカに到り着いた段階での到達点について整理しておくと、すでに触れてきたことを含め、次のように箇条書きできる。

1) 棟割賃貸形式からフロア賃貸形式へ。
2) 煉瓦造から鉄骨造へ。
3) 階段からエレベータへ。
4) コア・システムへ。
5) 以上四項によるレンタブル比の向上へ。
6) 工事の機械化、施工管理のシステム化による工期短縮へ。

以上のうち経済的観点から大きかったのはレンタブル比の向上と工期短縮の2点であったが、ここに注意する必要のあるのはこのようにして建設されるビルの姿形についてで、科学技術を駆使し、合理的に経済的につくられるから箱型にはなるが、しかし、その箱は装飾性の強い歴史主義系の様式で飾られていた。

例えば装飾性のいちばん少ない「丸ビル」もアール・デコ様式による。20世紀建築の姿形の先端は装飾を排したモダニズムに到達していたが、ことオフィスビルについては最先端のニューヨークも「丸ビル」も、最後の装飾様式ともいうべきアール・デコで飾られていた。このことは忘れないようにしたい。

コアシステムと「丸ビル」のストリート性

戦前の段階で、日本のオフィスビルは「丸ビル」をピークとしてアメリカの先端的6項目をなんとか獲得した、というのは全体としては正しいが、しかし一部は不正確で、4)コア・システムを「丸ビル」は採っていない。

前回(『新建築1992年4月別冊 日本現代建築家シリーズ15 三菱地所』)では触れなかったコア・システムプランの一件をここに述べよう。

エレベータと階段、配管を不可欠とする洗面所と簡便な調理台もしくは給湯室、さらにダストシュート、郵便受け用のメールシュート、今なら空調用の縦ダクト、といった縦方向の諸機能を1カ所に集中させ厚い壁で囲んでコア(核)とし、その四周に廊下を設け、さらにその外側を貸しフロアとする平面をコア・システムと呼び、これこそ19世紀末にシカゴに初登場したアメリカのスカイスクレイパーが不可欠に生み出した平面として知られる。

しかし、1914(大正3)年の「第21号館」から「丸ビル」に至るアメリカ系の丸の内オフィスビルには厳密なコア・システムが見当たらない。おそらく当時の建築基準法の実質10階制限(100尺制限。上限高さ30m)の下ではタテ長の全体形はあり得ず、広いビルに中庭を取って各フロアへの明り採りとするしかないからコア・システムの必要はなかった。

日本のオフィスビルにおけるコア・システムは、1927(昭和2)年の「大阪ビル東京分館一号館」が最初となり以後1931(昭和6)年「同二号館」と続き、つくられた場所はいずれも丸の内の南隣の日比谷のオフィスビル街の一画を占める。設計は渡辺節事務所。担当は村野藤吾。ビルの敷地が狭いからコア・システムが最適解だったに違いないが、大阪を本拠にオフィスビル業を営む大阪建物は初の東京進出にあたり丸の内を強く意識していた可能性が高い。日比谷を選んだのも、ビルにナンバーを振るという三菱地所が始めた呼名もそうだろう。

大阪建物は三菱地所を、渡辺節は桜井小太郎に挑むような気持ちで取り組んだに違いない。その時、オフィスというビルディングタイプの核心はプランと考え、調査済みのアメリカを参考にコア・システムをまとめた。もちろん狭い敷地ゆえもあるが、丸の内と同じような広い敷地に大阪建物が渡辺節に託して1925(大正14)年に実現した「大阪ビルヂング」を見ると、「丸ビル」同様コア・システムではないがコア・システムに通ずるプランの集中性と緊張感がある。一方、「丸ビル」にはそれがない。

しかし、「丸ビル」にはプランの集中性と緊張感に代わって、中央を十字に走る広い通り抜けがあった。大げさに言うなら、オフィスビルの中にストリートが取り込まれていた。このストリート性が集中と緊張を邪魔したに違いないが、しかしこの性格があったからこそ「丸ビル」は普通のオフィスビルを超えて広く長く人びとに記憶されることに成功した。

「大阪ビルヂング」(設計:渡辺節事務所、1925[大正14]年竣工)

都市の中の丸の内

戦前の丸の内のビルについては以上にして、都市の一部としての丸の内についても簡単に触れておきたい。

丸の内をオフィス街とすることは1890(明治23)年に政府が決め、三菱一社と“渋沢グループ”(渋沢栄一[1840─1931〈天保11─昭和6〉年]、三井、大倉他)が払い下げを巡って争い、結局、企業として捨身で臨んだ三菱が一社払い下げに成功し、道路他のインフラを含め三菱は独自にオフィス街開発を進め、1894(明治27)年「第1号館」(通称「三菱一号館」)から1923(大正12)年の「丸ビル」に至ることは既に述べた。その間、すべて独自に進めたわけではなく、周囲の地域と関係する事項については政府の、正確には内務省市区改正委員会との合議に従った。その最大は、東京駅と皇居の間を繋ぐ50m幅の行幸道路の計画だった。

市区改正委員会が新橋・上野間の鉄道敷設と東京駅の配置を決めた段階ではまだ行幸道路の計画はなく、駅前の一部を除いて三菱所有のオフィス用地が占めていた。東京の表玄関の整備だけに政府にとっても三菱にとっても一大事に違いないが、残念ながらそのやり取りについてはまだ明らかになっていない。

1916(大正5)年、東京駅開業直前にやっと行幸道路が決まり、その地割に従って「丸ビル」と「郵船ビル」がつくられ、今日に至る東京の表玄関が形づくられている。

表玄関ゆえ、八重洲口と違い、ネオンや看板は取り付けず、ヨーロッパのように整然とした、東京には稀な街並みが成立した。「第1号館」の建つ通りは「一丁倫敦ロンドン」と呼ばれたし、「丸ビル」前を当初「一丁紐育ニューヨーク」と呼ぶ動きもあったが結局こっちは定着していない。

以上が、丸の内を巡る戦前の建築と都市の動きの粗筋となる。

戦後のことを、戦後すぐの技師長を務めた杉山雅則に聞いたことがあるが、「平面も仕上げもローコストを旨としたから、建築家としては盛り上がることが少なかった」という。 

実際、仲通りに軒を連ねた戦後のオフィスビルを図面に当たって確かめると、そうとしか言えないが、戦前との差は2点で明らかで、まず平面にコア・システムが現れているし、姿形はモダニズムを採る。この2点は丸の内の外の普通のビルも同じだから特色とは言えないが、軒高を整えてひとつの街並みを形成している点は丸の内ならではで、とりわけ仲通りはそうだった。充実した並木と一体化して、ヨーロッパの歴史的街並みを戦後のモダニズム建築でつくったみたいに見える。

戦前のビルの建て替え

戦後復興として経済成長の中で戦前のビルは次々に建て替えられていくことになるが、最後に取り壊されその象徴となったのが1968(昭和43)年の「第1号館」だった。改築計画に対し、三菱地所出身にして当時の建築界のボスとも言うべき内田祥三と建築史家の関野克(1909─2001[明治42─平成13]年)は社長に直接、保存を求めたが、しかし、社長の海外出張中に取り壊しが始まってしまった。 「第1号館」以後に各地に多発した歴史的建築の取り壊しは、やがて東京駅に波及し、この頃から保存と開発の問題をなんとか調停すべく、2001(平成13)年、アメリカに学んで「空中権の移転」の方法が認められるようになる。戦後における保存の問題も、「第1号館」から「東京駅」まで、丸の内を舞台として推移している。

高さ問題の発生

もうひとつ大きな出来事として、1965(昭和40)年、行幸道路の門口に位置する超高層の「東京海上ビルディング」計画に対し、高さ問題が起きた。上階から皇居の中が覗かれるというのである。設計は前川國男(1905─1986[明治38─昭和61]年)で東京海上の自社ビルだから地所とは直接関係しないが、地所としても放っておけない複雑な問題であった。政治、行政を巻き込んださまざまな動きを経て、上層階の窓を閉じることで結着している。

明治のオフィス街に始まり大正には首都の表玄関としての公共性、記念碑性を新たに加え、戦後も不動の存在感を示す丸の内の屋台骨を1968(昭和43)年、三井不動産による「霞が関ビルディング」が揺るがす。

三井不動産は、江戸時代より市中各所で土地の集積を続け、明治維新により近代という資本主義の時代を迎えると、日本橋の本拠地とは別に、渋沢栄一と組んで兜町一帯にも進出し、日本最初のオフィス街である「兜町ビジネス街」を開発し、後に丸の内に移る三菱系各社や商工会議所や銀行協会などほぼすべての近代企業と経済関係組織が集中する。

「東京海上ビルディング」(設計:前川國男、1965[昭和40]年竣工)

「霞が関ビルディング」の衝激

しかし、兜町ビジネス街が予定した墨田川河口への国際港開設がヨコハマの欧米系貿易勢力の猛反対により中止され、しかたなく政府はビジネス街を丸の内に移すことを決め、そして先に述べた丸の内払い下げを巡り三菱一社と渋沢・三井連合が争い、三菱が勝った。その後の兜町には株式取引所と渋沢がつくった第一銀行が残ったものの、かつての栄光は消える。その後、1930(昭和5)年、渋沢栄一の許し(1931[昭和6]年逝去)を得て、第一銀行は丸の内の北端に移っている。

オフィス街形成において大きく遅れをとった三井は、丸の内の南に続く日比谷に1929(昭和4)年「三信ビル」をつくるなどし、丸の内の北隣りと南隣りに非三菱のオフィス街は広がっていくものの中心の丸の内にはかなわない。

そして1968(昭和43)年、三井は霞が関の一画に「霞が関ビルディング」をつくった。政治、行政の中心地である霞が関という立地といい、日本最初の超高層オフィスビルといい、丸の内への衝激は大きかった。

超高層オフィスの衝激は分かるとしてもなぜ霞が関という立地がテーマとなり得るのか。それには日本固有の「政」と「経」の関係がある。欧米でもアジアの大陸でも、例えばアメリカならワシントンとニューヨーク、中国なら北京と上海のように政治の中心都市と経済の中心都市は分立する。日本も江戸時代の前半は、政治の江戸、経済の大阪、天皇の京都と三都分立であったが、後半は経済も大阪から江戸に移り、明治維新を境に天皇も東上し、東京には政治と経済と天皇の3つが集まる。だから、オフィス街と皇居への玄関口が一致するような世界的には珍しいあり方が成り立った。加えて丸の内は霞が関と近かったから、政、経、天皇は歩いていける距離に分布していた。

日本の政と経には欧米にはない特徴があって、政と経の間の人の行き来はなにかにつけて頻繁に行われる。とりわけ、経のトップが政に出向くことは多い。一度は、新宿副都心のビルに移った企業が大手町、丸の内、日比谷、霞が関へと戻ったのは、新宿と霞が関では移動にかかる時間が読めないからだと言う。歩いて行ける距離なら、時間は読めるから、会議や会談に遅れることはない。

三井の「霞が関ビルディング」は、霞が関の一画を占めるから、これ以上の近さはない。

立地においてもビル形式においても、丸の内は一歩遅れをとった。

そして、地所は1988(昭和63)年に「通称 マンハッタン計画」を打ち出したが、その後大丸有地区協議会を立ち上げて現実的な第3次開発「丸の内再構築」始め、1919(大正8)年制定の建築基準の実質10階制限を超えた「丸の内ビルディング」(2002[平成14]年竣工)等の超高層オフィスビル建設へと進み、今に至る。

「霞が関ビルディング」
(設計:霞が関ビル建設委員会 三井不動産・山下寿郎設計事務所、1968[昭和43]年竣工)

「アークヒルズ」(設計:入江三宅設計事務所 他、1986[昭和61]年竣工

森ビルの都市開発

しかし丸の内に吹く向かい風は収まらない。私の見るところふたつ。

まずひとつは、森ビルの都市開発で、江戸以来の三井不動産も、明治このかたの三菱地所も予想だにしなかった山の手方面でオフィスビル開発が始まった。森ビルは、1959(昭和34)年の設立当初より立地も規模もまるで違う丸の内を意識し、いつの日かは抜こうと願って丸の内に習い1号、2号とナンバーを付けた、と森泰吉郎(1904─1993[明治37─平成5]年)は私に語った。森ビルが全力を傾け長い時間をかけてつくった1986(昭和61)年の「アークヒルズ」は、後ろから窺うような立地ではあるが霞が関に近い。さらにやや間を置いて「六本木ヒルズ」(2003[平成15]年竣工)が続く。

森ビルの「アークヒルズ」には三井、三菱にはない特徴があった。飲食店や店舗を、それも若い世代向けを、超高層オフィスビルの中に取り込んでいる。ショップ系に加えて、芸術系の施設まで。

「丸ビル」の1階で小規模になされていたストリートの取り込みを、大々的にかつ前面に出していた。

森ビルの試みに私が注目するのは、コア・システムに収束する高層オフィスビルの平面計画には「死んだ1階」というか「人気の感じられない1階」という欠陥があったからだ。外に向かって開く肝心の1階が、ただ人の動線処理の場と化し、何ら街や都市空間の充実に貢献していない。森ビルは、その欠を埋めて、ビルと街の魅力を増すことでオフィスとしての魅力を高めようとしていた。

「六本木ヒルズ」
(設計:森ビル、入江三宅設計事務所、2003[平成15]年竣工)

移り変わる東京の重心

オフィスと表玄関のふたつの場として成立し、東京において確たる地位を占めてきた丸の内を考える時、飲食や買い物といった消費とか観劇とか美術とかの、オフィス機能とは別の都市の領分と丸の内がどう関係してきたかを振り返る必要がある。

三菱も当初よりそれらは不可欠と考え、コンドルに劇場設計を依頼したが実現せず、その後、1911(明治44)年には横河民輔の手で「帝国劇場」が生まれている。飲食やパーティの場として1920(大正9)年には「東京會舘」が開業している。しかし、丸の内のオフィスとしての基本的性格を変えるほどのスケールではなかった。

ところが、隣りの日比谷(有楽町の「日本劇場」も含む)では、1934(昭和9)年以後小林一三率いる大阪の東宝が進出して「帝国劇場」をはるかに凌ぐ映画街を築き上げている。さらに東京全体のスケールで眺めれば、三井が、江戸の延長で開発を進めてきた日本橋川流域のその先の千葉方面の工場用地が公害問題から使えなくなると、その空地にディズニーランドを誘致し、東京の重心を千葉側に少しではあるが引っ張ることに成功している。

日比谷の先の品川方面は、羽田への近さといいリニアの起点といい、日本列島レべルの空と陸のインフラがここに集まるから、当然のようにして東京の重心は南へと引っ張られるに違いない。

このように都市としての東京の動向を眺めてくると、東京の重心は、丸の内近傍であれば、古くは日比谷の映画街、戦後なら「霞が関ビルディング」と森ビル、さらに品川方面の開発、丸の内からやや離れた場所であれば新宿副都心さらにディズニーランドと湾岸開発というようにさまざまな開発によって東へ西へ南へと引っ張られ移動してきた。

丸の内の新しい光景

こうした都市の重心の移動の中で、丸の内は、戦後すぐの建て替え、さらに超高層化による第3次開発「丸の内再構築」で対応してきた。そして、明治以後の丸の内を観察し続けてきた目には思わぬ変化が起こった。昭和、高度経済成長期のビジネス中心の街とは質の違う変化だった。

「休日、丸の内を人が歩いている」

それまで休日に何か用事があって出かけても、濠端側も仲通りも人影はまばらで、人を見かけても、例えば濠端側であればビルの前に腰かけて皇居方面をスケッチする若い女性とか、仲通りであればガードマンとかに限られ、勤め人も街来者も歩いてはいない。まるでジョルジョ・デ・キリコ(1888─1978年)の「通りの神秘と憂愁」(1914年)のような、街はそのままなのに人ひとけ気だけが一瞬消えた光景を見ることができた。

その丸の内を、休日、若い女性たちが連れだって歩き、オフィスビルの前に立ち止って中を眺めた後、入口から入っていく。オフィス街の1階がブランドショップや高級飲食の店に代わっている。

第3次開発「丸の内再構築」の中で超高層ビルの1階問題を克服するために考えられたのか、それとも飲食や買い物や美術や観劇といったオフィスとは別の都市機能の取り込み策の延長なのか動機は知らないが、日本のオフィス街をリードしてきた丸の内に消費と文化の街が組み込まれた。

未来の丸の内

オフィス専用としてスタートし、やがて、東京の表玄関としての公共性と記念碑性を、さらにショッピングと文化の街としての性格も取り込んだ今、日本離れした賑わいと落ち着きの共存した仲通りを歩き、カフェから外を眺めながら思う。丸の内の長い歩みのピークを見ているのではないか、と。そしてさらに思う。このピークの先には、オフィスというビルディングタイプについての私の思考力、想像力を超えた光景が広がっているのかもしれない、と。

あまりに唐突だが、三菱を創業した岩崎彌太郎(1835~1885[天保6─明治18]年)のひ孫の岩崎寛彌(1930─2008[昭和5─平成20]年)の話を思い出す。寛彌は、彌太郎の息子の久彌(1865─1955[慶応元─昭和30]年)から、父(彦彌太、1895─1967[明治28─昭和42]年)を飛ばして岩崎家を継ぐよう中学生時代まで訓育され、戦後の財閥解体後は三菱銀行の重役を務めた。私が建築史家として親しくしていただいたのは晩年になるが、「若い頃から、銀行の店舗はなくなる、と思ってきた」とのことだった。確かに銀行の店舗数は減っているし、その延長で考えると、サラリーマンが都心の大きな広い場所に集まって一緒に働くことがこれからも大勢たいせいなのか───ピークの先の光景は建築史家の脳中に結像しない。

[PROFILE]

藤森 照信ふじもり てるのぶ

1946年 長野県生まれ
1971年 東北大学工学部建築学科卒業
1978年 東京大学大学院修了
1998─2010年 同大学教授
2010─14年 工学院大学教授
2010年─ 東京大学名誉教授
現在 工学院大学 特任教授、東京都江戸東京博物館館長