第8章
昭和の地所
戦争が終わり、高度経済成長期の「丸ノ内総合開発計画」で、再び、丸の内を日本最先端の経済街とするべく歯車が動き出します。高層化への需要で「第1号館(2009年に復元、現在美術館として使われる「三菱一号館」)」を含む、明治期の赤煉瓦の建物を失う一方、街区や路地を抜本的に整備。拡張された「仲通り」が走り、「100尺」の軒線が街の表情をつくる、今日の丸の内のベースが完成しました。本論が書かれた約9年後(2001年)に、私たちは三菱地所設計として三菱地所から分社・独立します。2000年代を迎え、丸の内が超高層化されても、こうした設計思想は連綿と継承され、そのノウハウは「みなとみらい21」のほか、国内外各地に展開しています。建築を通して街を見つめる私たち。そのあり様は、1890年の「丸ノ内建築所」設置以来、今日まで続いているものです。
戦前
丸ビル竣工の後、地所の技術陣にこれまでなかったような出来事があった。技師長の桜井小太郎をはじめ技師の山下寿郎と川元良一、石原信之ほか十数名が一気に退社したのである。山下、石原、川元は帝大の出身者で、本来なら地所の将来を担うべき立場にあった。これまでスタッフの数が増えこそすれ、減ることはなかったのにどうしたというのだろうか。
この件につき、丸ビルが関東大震災で被災した責任をとって、という話も建築界には伝わっているが、しかし事実とは思われない。たしかに辞めたのは大正12年だが、月は5月であり、大震災の前である。やはり、丸ビルの完成を待っての退社と考えたほうがいい。
ではなぜ丸ビルの完成を待って、中核の4人がごっそり脱けたかというと、仕事がなくなったからである。
丸ビルまでが戦前の丸の内の上り坂の時代であって、丸ビル完成の後、新しいビルヘの需要は少なくなってしまう。そのことは丸ビルヘの入居者にもはっきり現れている。それまでの丸の内のビルにくらべ弁護士、医師、建築家などの小規模自営業者が多く入り、大手企業がほとんど入っていないが、これは、大口の需要がなくなったことを意味する。
大正期の丸ビルに向けての上げ潮の中で100名余りにふくらんだ石原ほか地所の技術陣を減らすため、桜井は率先して辞めて桜井小太郎建築事務所を開設し、石原ほか何人かがここへ移り、帝大出の山下は大学に講師として戻り、川元は同潤会に入り建築部長の席に就いた。山下と川元の人事は、地所のOB(保岡時代に在職した)の東大教授内田祥三の尽力によるものにちがいない。
大正12年の丸ビル竣工と桜井以下中核技術陣の辞職によってひとつの時代が幕を閉じたのである。
大正13年から次の時代が始まり戦前いっぱい続くのだが、しかしこれまでコンドル時代、曽禰時代、保岡時代、桜井時代と名付けたように個人の名をつけた時代区分はできなくなる。技術陣のトップには藤村朗が就くのだが、そもそも仕事が少ない上、目立つ作品をつくるチャンスもなくなり、ひとりの個性的なアーキテクトがリーダーシップをとって大きな記念碑的な仕事をなしとげていくような時代ではなくなり、地所は攻めから守りの時代へと入る。
いかに仕事が少なくなったかは、丸の内の自社ビルの完成件数を、桜井時代の大正2年から12年までと、それ以後昭和戦前までを比べてみれば一目瞭然で、前者は10年間で14作に対し、後者は23年間かかって10作に過ぎない。その10作も別館とか新館と名付けられたものが多いのである。
大正13年から昭和20年までに地所が手がけた丸の内のビルには次のようなものがある。
建設ラッシュがつづいた丸の内界隈(昭和36年頃の撮影)
仲8号館別館(大正15年竣工)、仲28号館(同上)、八重洲ビル(昭和3年)、丸ノ内ガラーヂ(昭和4年)、仲13号館別館(昭和10年)、仲10号館別館(昭和12年)、仲7号館別館(同上)、三菱商事ビル(同上)、三菱銀行新館(同上)。
これらのうち取り上げるに値するのは、八重洲ビルと丸ノ内ガラーヂくらいであろう。
前者は、この時期の技師長藤村朗の代表作で、丸の内には珍しくロマネスク様式を基調としている。後者は、本邦初の本格的駐車場建築として知られる。
このように良い仕事のチャンスも少なくなり、本業の丸の内の自社ビル建設が冷え込んだ中で、地所の技術陣は何をして食っていたのかというと、住宅を手がけていたのである。
地所の保管する図面を年代順にチェックしていくと、昭和10年前後に異様なまでの量の中小住宅の図面が突如現れるが、これらはビル建設が急速に減る中で、地所が三菱の社内に呼びかけ、住宅の仕事を掘り起こして引き受けたものにほかならない。
岩崎家関係からおそらく一社員、さらにはその紹介といったものまで含め、昭和戦前に地所が引き受けた住宅は、新築だけで80件以上にのぼる。
数は多いのだが、見るべきものは少ない。
そうした中に混じる「昭和17年10月設計宮崎邸防空壕」などという図面を目にすると、いささか淋しいものがある。
以上が明治、大正、昭和と続く戦前までの地所の歩みである。以後、戦後について簡単に述べてみよう。
丸ノ内総合改造計画
戦時中は軍事関係の工場などの設計程度しかなく、戦後の混乱期はバラック同然の建物しか手がけられなかった地所の技術陣が、ようやく建築らしい建築を手がけ、本業の丸の内のビルの仕事に復帰したのは昭和30年代に入ってからであり、とりわけ、高度成長期になってからであった。
再起した地所が最初に取り組んだ大型プロジェクトは、昭和34年から始まる“丸ノ内総合改造計画”である。
保岡時代に整備された赤煉瓦の仲通りをはじめ、その隣接する一帯に建てられた大正、昭和戦前のオフィスビルを改築しようという計画であった。
この計画によって、明治期に払い下げを受けて以来の丸の内の姿は大きな変化を見せる。
まず注目されるのは、道路が変えられたことで、南北に走る、つまり山の手線に平行して走る、濠端の公道と東京駅前の公道の中間を貫いていた2本の三菱の私道が仲通り1本に整理され、同時に仲通りは13メートルから21メートルヘと拡大された。
道路の本数の整理がなされたのは、それまでは1ブロックの中に小さなものが何棟か建っていたものをまとめて1棟とし、かつその1棟をより大きくして土地を有効利用しようという目的による。
かつて以上に中心軸として重要な意味を持つに至った仲通りは、21メートルに拡幅されただけでなく、将来は掘り下げて2層の道とし、サンクンガーデンとかデッキとか立体的利用が可能なように、地下埋設物や建物の地中部分を設定した。
しかし、この2層化は実行されずに今日に至っている。
こうしたインフラの改築とともに、ビルも建て替えられ新しくなるが、そのとき、街並みを整えるための努力がなされている。そのまま道沿いにビルを建てると、東西方向の道に面したビルが道路の斜線制限にひっかかって上のほうを斜めに切り落とさなくてはならず、軒線が凹凸してしまう。そこで、再開発の区域を1団地として扱い、他のところでオープンスペースを増やす代わりに斜線制限の緩和を許された。
仲通り計画における街並みデザインのポイントは軒線の統一にあった。この軒線の統一こそ、明治以来、丸の内を丸の内たらしめている景観のポイントにほかならないから、ここでその歩みを振り返ってみよう。
一丁ロンドンがつくられたとき、1号館を規準とする方向は決められていたが、コンドルはかならずしもそれを守らず、2号館の軒線をやや高くしている。コンドルの後を継いだ曽禰は忠実に1号館に軒線を合わせ、この方針は保岡も守り、軒線がどこまでも一直線に通る明治の仲通りが完成する。明治の仲通りの軒線の統一は三菱が独自に決めた約束ごとだったが、大正9年の市街地建築物法(現建築基準法)によって法により軒高が最高100尺(31メートル)に決められ、この100尺制限が、それ以後の丸の内の軒線統一の規準になり、それに従って行幸道路沿いの丸ビル、郵船ビルなどがつくられ、濠端道路では郵船ビル、明治生命館、第一生命館などがつくられた。明治の統一ぶりを仲通りが見せてくれたとするなら、大正、昭和戦前の統一ぶりは行幸道路と濠端通りが見せてくれたのである。
丸の内仲通りはランチ・プロムナード(正午から1時まで)となって歩行者天国 手前左が丸ビル(撮影1992年2月21日)
手前より三菱商事ビル、丸の内八重洲ビル、三菱ビル、丸ビル(撮影1992年2月21日)
こうした丸の内における軒線の統一の伝統がバックにあって、戦後の丸ノ内総合改造計画の軒線統一が生まれたにちがいない。
丸ノ内総合改造計画の推進者はもちろん、当時の社長渡辺武次郎、そして取締役建築第二部長の岩間旭であったが、建物のデザインは杉山雅則によりなされた。杉山は、戦前のレーモンド事務所で働き、東京女子大の計画などを担当した建築家で、日本のモダニズム建築の直系を継ぐひとりにほかならない。昭和17年9月に地所に入り、35年6月の退社まで地所のデザイン面をリードしている。なお、退社後昭和58年頃まで嘱託で在籍し、本誌に掲載されている「荒川豊蔵資料館」を設計した。
杉山氏は現在87歳で、地所OBの建築家としては最長老であり、戦中戦後の様子を知っている数少ない証人なので、インタヴューを試みた。
—— 地所に入られたきっかけは?
杉山:レーモンド事務所にいたんですが、レーモンドがアメリカに帰り、事務所を引き継いだが仕事がない。そうこうしている時に地所が人を求めているという話があって、赤星鉄馬さんに地所のトップの赤星陸治さんに紹介状を書いてもらった。しかし病気で面会謝絶でした。
—— どんな仕事が主でしたか。
杉山:三菱重工や三菱電機の工場がほとんどで、そのほか病院、工場の寄宿舎といった軍需関係ばっかりでした。すべて木造です。
—— 当時の地所の設計部門は藤村朗さんが技師長で率いてたんですが、どんな感じでしたか。
杉山:厳粛な感じで、藤村さんが部屋に入ってくると設計室は森閑として音もなく、といったムードになりました。
—— 空襲は丸の内にはあったんですか。
杉山:馬場先通りの南側はだいぶ焼けました。21号館は無事だったんですが、その回りの3階建てのは全滅でした。丸ビルのほうは焼夷弾が周囲に落ちたりしたが、大事にはいたらなかった。丸ビルの屋上に監視台をつくったり、夜は宿直制にしたりしてました。
—— 終戦の後、レーモンドが帰ってくるわけですが、自分のところに戻れといいませんでしたか。
杉山:日本に来る前から矢の催促で、早く事務所を再建しろといってきました。他のレーモンド事務所OBが再建したので、自分もと思って社長の中川軌太郎さんに辞表を出したんですが、事情はわかるが忙しいから残ってくれといわれ、結局、半日は地所、半日はレーモンドという奇妙な勤務が認められて、1年ほどそんな状態でした。
—— 戦後の仕事はバラックですか?
杉山:そうです、北海道の炭住(炭鉱の住宅)が大量にあって、それで地所は食いつないでいました。ふつうの都市のバラック住宅もやりました。
—— 本格的な丸の内の再建としては仲通りを軸とした丸ノ内総合改造計画があって、その設計を杉山さんが担当されたわけですが、何かデザイン上参考にされたビルはありましたか。
杉山:そういう手本になるものはなかったです。レーモンド時代のデザインともまた別のものとしてやりました。
—— ビルによって表現が少しずつ違っているのですが、何か方針があって……。
杉山:全体の統一感を出そうということはもちろんあったのですが、ビルごとの事情もあった。たとえば、新東京ビルは隣りの商工会議所に合せて垂直線を強調しようとしましたが、渡辺社長の意向で水平線を強調したり、有楽ビルは商業ビル的なイメージを出したり、新有楽町ビルは事務サイドから今までと違ったイメージでという注文があったりしました。
—— 地所のデザインの基本路線のようなものは当時あったんですか。
杉山:ひとつ営業サイドからの要求として1日も早く完成してほしいというのがあって、柱位置を決めると土工事に入るくらい急ぎましたから、“設計期間はない”ような状態でした。デザインについては、誰がいうともなく“質実剛健” “メンテナンス重視”ということがありました。仲通りはそういう中で生まれたわけです。
仲通りについては、結局やりませんでしたが、オープンカットで通りを地下と地上の2階建てにするという構想があって、それでどのビルの地階もそうできるように平面をつくってありますが、実現しませんでした。
現在、丸の内に出向くと、やはり仲通りが一番印象深く、他の街にはない大人っぽい落ち着きを感じさせてくれるが、そうした印象は軒線の統一とファサードのデザインのおおよその統一によるところが大きい。
丸ノ内総合改造計画は、明治の仲通り、大正・昭和戦前の行幸道路と濠端通りに続いて、昭和戦後の街並みの統一ぶりを代表するものとなったが、ここに歴史家としてひとつ心残りなのは、その計画の中で三菱1号館が取り壊されたことである。もし今も残っていたなら、小さな一輪の花として、巨大化する丸の内にかけがえなき潤いを与えてくれたであろうに。
丸の内の外へ
昭和46年に丸ノ内総合改造計画が三菱商事ビルの竣工したことで完了し、丸の内の戦後の再開発は大筋終わった。もちろん、三菱銀行の改築なども引き続き行われるのだが、丸の内のボディともいうべき仲通りの改築がなされたことで、一段落を迎えたのである。
この時期から、テーマは丸の内の外へと向かっていく。“脱丸の内”がいわれだしたのもこの頃である。しかし丸ノ内総合改造計画の進行に一歩遅れながらも併行して、昭和39年から“脱丸の内”の計画はスタートしていた。それが“特定街区”にほかならない。
特定街区の計画は、行政が都市計画の一環として行うもので、何人かの地権者が行政の指導のもと公共性のある再開発計画を立てれば、建築面積のボーナスがもらえる。
昭和39年の特定街区の第1回都市計画決定は霞が関3丁目、築地1丁目、常盤橋の3地区になされたが、そのうち常盤橋は地所および東京都ほかが地権者で、その設計は地所、日建設計などが担当した。
草創期の特定街区の具体的計画上の特徴のひとつは、ビルの足元回りに人工地盤を設け、将来そこをつないで東京に車道とは別の人間のための歩道をつくろうというもので、この人工地盤の考えは、戦後の東京の都市計画をリードした山田正男から出ていた。
この特定街区の認定を受けた計画の中でまっ先に完成したのは、第2陣で認定された中のひとつ日本橋3丁目のDICビルであるが、このDICビルの姿を見ると、人工地盤計画の問題点がすでに露呈しているといわざるをえない。この建物を眺めて、道に面した2階建ての屋上を将来の遊歩道の一部とか公共に開放された空間と思う人がいるだろうか。
人工地盤の工夫は、一カ所でも穴があけばそこに非連続点が生じて歩道としての一体性がそこなわれるから、有効ならしめるには広い範囲で一斉に例外なく実行するしかないのである。その意味では、人工地盤づくりを具体的テーマのひとつとした初期の特定街区は限界を持っていたといわざるをえない。
地所が関わった常盤橋地区の計画は、各ビルを高さ12メートルの人工地盤でつなぎ、それを東京駅までもっていく計画になっているが、計画決定から28年たった今でも東京駅へつながる気配はない。
このように人工地盤は山田正男のアイディア倒れの感がいなめないのだが、しかし、ボーナスを与えることで公共性の強い再開発を進めようという特定街区の考え方は、人工地盤では無理があったとしても、歩道拡幅、小広場といった面では大いに効果をあげた。
この特定街区の方式は、常盤橋をはじめ三田国際ビル、サンシャインシティ、日比谷国際ビルなどで着々と進み、現在に至っている。
以上のように、丸の内では丸ノ内総合改造計画、丸の内以外では特定街区の計画を軸に戦後のオフィスビル建設を進めてきた地所だが、ここ数年、新しい展開を見せ始めている。
ひとつは、丸の内のマンハッタン計画であり、もうひとつは横浜のMM21の計画である。
このふたつの計画を語るためには、近年の東京におけるオフィスビル建設の大きな動向をおさえておく必要がある。
近年の東京のオフィスビル建設は4つの方向で進んでいる。ひとつは、よく知られているようにウォーターフロント方面で、隅田川の流域から千葉にかけてと埋立地にかけての一帯で、かつての工場用地や倉庫用地や新たな埋立地の上にビジネスの中心を展開しようという動きである。この動きの中心には、民間会社では三井不動産がある。
もうひとつは、港区の山の手台地方面で、それまでは住宅地や大使館地帯として性格付けられオフィスの進出は考えられなかったが、千代田、中央区の平地がいっぱいになった結果、ビルが山の手台地にはい上がり始めたのである。
この動きの中心はいうまでもなく、森ビルである。
もうひとつは、山の手台地のさらに奥の西新宿方面で、これは東京都が中心で開発を進め、民間では各保険会社、三井不動産などがこぞって進出している。しかし、三菱は進出しなかった。
以上の3つは、いわばビル街としては新開地にほかならないが、これに老舗の丸の内を加えると現在の東京を熱くしている4つの方面がそろう。
この4つという数は、東京の地形の成り立ちを考えるとき、最終的な数ではないかと思われる。江戸このかた東京という都市は山の手台地と下町低地からなる地形の上に展開してきたが、この海辺から山の手、さらにその奥へと続く地形は、4つの場からなっているといえる。まず下町低地では海に近い場と台地に近い場のふたつで、前者がウォーターフロント、後者が丸の内に当たる。次いで山の手台地では下町低地に近い場と内陸の場のふたつで、前者が港区、後者が西新宿。
つまり、東京の地形を見る限り、現在展開中の4つの場で開発のパターンは尽きているのである。
そして、この4つの場には、ウォーターフロント=三井不動産、丸の内=三菱地所、港区=森ビル、西新宿=三菱以外の各社、という構造が、どれだけ意図されたものかははなはだ心もとないが、結果的に出来上がっている。僕が、三井不動産関係者と森ビルの森泰吉郎氏に聞いたところでは、三井のウォーターフロント展開も、森ビルの港区展開も、戦後、長期の計画に立って進めたというよりは、やってるうちにそうなったという面のほうが強いらしい。
三井がウォーターフロントに強い理由は、三井家以来、日本橋川から隅田川にかけての土地を集積していたことと、千葉方向に工業用地の埋立てをしていたことのふたつだが、ともにオフィス以外の目的で用意されたものにほかならない。
森ビルがビルを建てて丘に登ったのも、平地が先行不動産会社により押さえられており、やむなくの進出であった。
明治に払い下げられたときの丸の内も実はそうだったのだが、土地開発には偶然がつきまとい、一企業の努力ではどうしようもない時代の動向が結果を左右する。
こうした偶然や運不運はあるのだが、こと東京の開発の方向性については性格の異なる4つの場においてすでに実現しているパターンに尽きているといわざるをえない。
そして、地所は、4つの場のうち丸の内ひとつだけに集中しているのである。もちろん、特定街区の方式により丸の内以外での展開も示しているが、ウォーターフロント、港区、西新宿といった方面のまとまった開発を凌ぎうるのは丸の内しかない。
とするなら、現時点で地所が取りうる方向は明らかで、ひとつは、丸の内の再々開発という道。都内でできるのはこれひとつにちがいない。そしてもうひとつは、東京を離れて首都圏のほかの場所での、第二の丸の内づくり。論理的に詰めていくとそういうことになるのである。
丸の内については“マンハッタン計画”※が打ち出され、第二の丸の内づくりとしては横浜のMM21地区の開発がすでにスタートしている。
これらの計画が果たしてどういう結果を生むのか。かつて丸の内の払い下げのとき、ビルの建つ気配もなく夏草の生い茂る大方の土地を前に、岩崎彌之助は「虎でも飼うさ」と語ったというが、土地の開発は投資としては成果の出るまでの時間が最も長い事業にほかならず、この点は短所といえなくもないのだが、しかしひとたび軌道に乗れば、長期にわたって繰り返し収穫を得ることができるという長所も持っている。マンハッタン計画とMM21計画は、その名の通りに、21世紀になって本場マンハッタンの動向と深く関連して結果が出ることになろう。
※マンハッタン計画
「丸の内再開発計画」(1988年に三菱地所が発表した計画)の通称。容積率を引き上げ、丸の内の多くのビルを超高層化させるマスタープラン。2001年丸ビル建て替え以降の「丸の内再構築」とは別の計画。