第5章
仲通りの完成
──保岡勝也の時代
わずか30歳弱にして、三菱のトップ建築家となった保岡勝也。本章では、これまで光が当てられてこなかった、彼の丸の内でのキャリアを紐解きます。 仲通りの建物を数多く手がけ、藤森氏曰く「仲通りを完成させた」保岡。統一感ある街並みを南北に展開し、赤レンガの「街のビジュアル」を形成した一方、国内最先端の試みだった、鉄筋コンクリート造という技術革新が、保岡によりもたらされた可能性が指摘されます。明治と大正の過渡期にあたるこの時代、エレベータなど新たなエレメントの登場で、徐々にイギリス式から、アメリカ式の大規模で合理的なプランニングへと、オフィスのつくり方が変化していく様子が描出されます。
明治39年、曽禰達蔵が退いた後を受け、保岡勝也が三菱合資会社のトップ建築家となり、明治45年に退社するまで、8号館(明治40年)から20号館(明治45年)まで13棟のビルを完成させ、21号館の基本設計を済ませている。この時期を保岡時代と呼んでもいいだろう。
レスカス、山口半六、藤本壽吉、コンドル、曽禰達蔵と続いた三菱の建築家の6代目になるわけだが、先行する5人に比べこれまでまったく語られることがなかった。丸の内のビル建設では明治期に完成した20件のうち13棟も手がけているのにどうしてか忘れられた建築家となってしまった。
そこで、これまで得たわずかな資料を元に保岡の事蹟を復原しようと思う。
生まれたのは明治10年1月22日、東京の人である。明治33年に工科大学建築学科を卒業し、ただちに三菱に入社したものと思われる。当時、建築学科の学生の就職は、主任教授の辰野金吾が振り分ける習慣だったから、曽禰が辰野に学生を求め、辰野が紹介したにちがいない。明治33年という時期は、しばらく中断していたビル建築が再開する前年に当たり、つまりコンドルの後を受けた曽禰がいよいよ4号館の設計に着手した年に当たり、曽禰は自分の右腕となるべき人物を求めたわけである。
入社後、曽禰の下で働き、曽禰の退社後は弱冠29歳で三菱のトップ建築家のポストに就き腕を振るい、明治41年には欧米視察にも送られているが、明治45年(大正元年)、40代半ばの働き盛りに突如退社した。
そして翌大正2年2月11日、保岡建築事務所を開設し、地方銀行などを手がけているが、大正10年頃からは中小の住宅を大量に手がけ、同時に市民向けの住宅図集を大量に刊行した。保岡以前、市民の普通の住宅を大学出のアーキテクトが手がけることはなかったから、彼こそ大正期に初めて誕生した本邦初の“住宅作家”といえよう。昭和になってからも住宅作家として過ごしているが、昭和10年代以後の動向は不明のままである。
以上、わずかに明らかとなった保岡の経歴のうち、やはり一番の謎はなぜ三菱を突如退社したか、である。保岡と入れ替わるようにして明治45年に地所入りした建築家の故山下寿郎に10年ほど前、丸ビルについて聞き取りをしたとき、保岡について次のような思い出を話してくれた。
「卒業後地所に入ることに決まってから、先輩で地所に勤めていた内田祥三さんにあいさつに行ったときのことですが、そのとき、内田さんは『技師長の保岡さんは難しい人で、社内でもいろいろあるから、付き合わないようにしたほうがいいよ』といわれた。実際、入ってみるとたしかに難しい人でした。」
おそらく、性格が企業組織に合わず、退社に至ったものと思われる。
竣工した第8号館(右側)と第9号館(左側)。奥ではまだ第10号館と11号館が工事中。仲通りを北方向へ写す
保岡時代の実績
この時期の丸の内の発展の様子を見てみよう。
仲通りのアパートメントの隣りに8号館を建てたのを皮切りに、11号館までが仲通りの街並みを北に伸ばし、続いて、12号館以後が一丁ロンドンより南へと仲通りを伸ばし、仲通りが完成する。仲通りの完成により、丸の内は一丁ロンドンを東西軸、仲通りを南北軸とする十字の街となった。
普通丸の内の煉瓦街というと、一丁ロンドンばかりが取り上げられるが、仲通りも同じくらいに重要な意味を持っている。たとえば、赤煉瓦のオフィス街が大正初頭に完成したときの街の配置図を見ていただきたい。色の薄いところが保岡時代の実績だが、まず、コンドル時代、曽禰時代に比べいかに大量に建設されたかがわかるだろう。次いで、仲通りに注目すると、保岡時代の仕事が仲通りに沿って展開されたこともわかる。さらに通りの長さを見ると、一丁ロンドンよりは仲通りのほうが3割がた長く伸びている。赤煉瓦の通りとしては仲通りのほうが長さだけについては勝っていたことになる。
この図とともにもうひとつ、明治38年に仲通りを北の端から南に向かって撮った写真を見ていただこう。もし、知らない人が見たら、これが日本かと疑うにちがいないくらいどこまでも赤煉瓦の洋風の街が伸びている。
―丁ロンドンと仲通りの写真を比べれば納得されるように、個々の建物は一丁ロンドンのほうがずっといいのだが、通りの印象としては仲通りのほうがはるかに強烈だ。
理由としては、一丁ロンドンの道路が広過ぎて、通りとしての一体感に欠けること、また、一丁ロンドンには2号館とその向かいの東京商業会議所(妻木頼黄設計、明治32年)と、スタイルが別の二大建築が建っていて、統一性をいささかそこねていること、がある。それに対し、仲通りは、通りも狭く、かつ同一系のスタイルでまとめられているから、ストリート性が強く心に残るのである。
ストリート性の強調は、個々の建物についてもいうことができる。
大正12年「丸の内街区」の建物配置図(1階平面図)作制:朝倉英博、藤森照信
仲通りを挟んで左右対称とした立面図
実はさっきの写真を注意深く観察された人なら気付かれたように、保岡時代の仲通りのビルは、向かい合うビル同士がファサードを同一に設計されていた。通りの左右に同じ街並みが並んでいたのである。このやり方は、曽禰時代につくられた仲通り第1作の6、7号館のアパートで試みられ、保岡により全面的に展開された。図面を逆に使えば済むのだから“手抜きでは”と疑われる人もあるかもしれないが、北端の10号館、11号館を見てもらうと、平面も違うし、仲通り側でない北面のファサードのデザインも違うのに、仲通りに面するところだけ同じにしているし、8号と9号館もちがう平面の上に、苦労して同じ印象のファサードを乗せている。むしろ、手間をかけてファサードの同一化に努力していることが納得されよう。
個々の建物のスタイルも、一丁ロンドンのような構えはない。一丁ロンドンは、赤煉瓦のエリザベサンがかった折衷系の様式(1、3、4、5号館)と石のネオクラシック系(2号館)の様式ふたつの混合だったが、仲通りはクイーン・アン系一色にまとめられている。
本場ロンドンに1880年代初頭につくられたカドガン・スクウェアやボストンのバックベイ街ほどではないが、日本の丸の内にもクイーン・アン様式のにぎやかな赤煉瓦のストリートが実現していたのである。
以上が保岡時代の仲通りのストリートと建築の表現についてだが、では技術の面では何かこれといった見どころはあったんだろうか。全建築の詳細な図面が保存されているからそれをチェックしてみると、若干だがそれまでなかった試みがなされていることがわかる。
まず構造技術からチェックすると、明治44年完成の13号館には、赤煉瓦の壁体の中に補強の鉄棒が組み込まれている。耐震性を高めるための工夫にちがいないが、この方法は日本ではレスカスが明治6年にニコライ邸で初めて試みて以来、細々と諸方面で続けられたもので、それが丸の内のビルにも及んだわけである。建築技術史的にいうと、いささか遅れた波及というしかないが。 手前より第11、9、7号館が並ぶ仲通り
仕上げの技術をチェックすると、明治43年完成の12号館の軒回りや玄関上部の手すりにテラコッタが使われていることが明らかとなる。図面でいえば、一見石のように見えながら中が空洞で、アンカーによって煉瓦の躯体に止められているのがそう。
日本におけるテラコッタの歴史はかならずしも明らかではないが、明治42年完成の武田五一設計による京都府立図書館が第1号といわれている。とすると、12号館は惜しくも1年遅れで第1号の栄は逸したものの、最初期の作品といえる。
テラコッタはイギリスで石材の代役として発明され、記念性よりは経済性を求められる都市住宅、とりわけクイーン・アン様式の都市建築で大いに発達したものだから、丸の内での使用は本来の主旨に沿っているといえよう。12号館を皮切りに、以後丸の内では長く親しまれる仕上げ材である。
以上が保岡時代の成果だがまとめるなら、①赤煉瓦時代の丸の内を完成させたこと、②クイーン・アンの仲通りをつくったこと、のふたつが目立った功績といえよう。
以上の分を書き終え編集部に渡し、校正のゲラに手を入れている段階で、もうひとつ新しい功績が明らかになった。地所所蔵の図面に従い、1号館から20号館までの平面図を地図に落とし、赤煉瓦時代の丸の内の街を完全復元する試みに着手したのだが(未完であるが)、1号館から13号館の群と14号館から20号館の群を比べると、縮尺を間違えたのではないかと疑われるほどの差がある。
14号館から20号館は、部屋も小割りで壁厚も小さい。13号館と14号館を見比べれば、両者の間には溝があることが誰でもわかる。部屋の小割りは需要に合わせたとも考えられるが、壁の薄さはいったいどうしたというのだろうか。
モ・シ・ヤ・? と思い、固面をチェックすると、ヤ・ハ・リ! 鉄筋コンクリート造なのである。
第12号館(明治43年:保岡勝也)
第15号館(大正2年:保岡勝也)
14号館・16号館は明治45年5月16日設計、15号館・17号館は同年3月設計で、完成はともに大正2年。明治45年設計、大正2年完成──この事実は歴史家としては放っておけない。日本の全鉄筋コンクリート造(実験的なものは除く)の第1号は周知のように遠藤於菟が明治45年に完成した三井物産横浜支店だが、丸の内の14から17号館はそれに続く第2号ということになるのである。
これまでほぼ完成されたと目されてきた日本の鉄筋コンクリート技術史研究に書き換えの必要が生じた。三菱地所の仕事は技術史上もう一度、洗い直す必要がある。
この鉄筋コンクリートの先駆的試みを誰が推めたか、であるが、保岡勝也の陣頭指揮と見てまちがいない。当時の地所の技術スタッフに新技術を理解できそうな人は保岡以外に見当たらないし、また保岡はこの設計に先立って明治45年4月5日に刊行したアルバイト設計の自作集(後出)の中で「芝区高輪所在某邸内3階建鉄筋コンクリート書庫之図」を公表し、鉄筋コンクリート建築のつくり方について詳細に報告している。某邸とはコンドルの岩崎彌之助邸(開東閣)で、同邸は明治41年2月に完成しているから、保岡の書庫(静華堂文庫)も同時期から明治44年の静華堂文庫開館のあいだに完成した。とすると、遠藤於菟の三井物産横浜支店を抜くだけでなく、実験作として知られる海軍技師真島健三郎設計になる佐世保海軍基地の明治38年の炊飯所、ボイラー室に続く実験作第2号となり、建築家としては第1号の栄光を持つことになる。遠藤ではなく保岡こそ“日本の鉄筋コンクリート建築の父”かもしれない可能性をここでは示唆して、話しを先に進める。保岡は、岩崎彌之助邸で鉄筋コンクリートを試みた後、丸の内のオフィスビルで新技術を大々的に展開したのだった。
保岡の功績は、先記①、②に加え、③鉄筋コンクリート造を先駆的に展開したこと、をここに銘記しておく。
第14号館立面図
第13号館正面(北)立面図 明治40年12月9日
第13号館正面(北)立面図 明治42年10月10日
(上図は原案で保岡の印が捺印されている。竣工は明治44年。)
第14及び15号館 鋼筋混凝土工事詳細図(よく見ると仮枠まで描かれている)
第21号館(大正3年:基本設計 保岡勝也)
第21号館南立面図 大正2年4月24日
21号館について
保岡の在任中に完成した仕事は以上だが、このほか基本設計を固めた段階で退社し、最後まで面倒をみなかった作品として21号館がある。
普通のビルなら放っておけばいいが、丸の内のオフィスビル発達史の上では決定的な一歩を踏み出した作品だから、ここで稿を改めしっかり取り上げたい。
この、明治のビルの時代を終わらせ、大正のビルの時代を開くことになる建物の発端から探ってみよう。明治44年に東大の建築学科を出て地所入りした後の技師長の藤村朗が次のような細かい話を残している。やや長いが委細を尽くしているので引用しよう。
「私が明治44年に三菱に入りまして1、2箇月過ぎますと当時保岡さんが建築の大将でありました。保岡さんから今度はビルディングをこしらえると云う話だから君新進の知識で設計しろと云うので面喰つたのであります。兎に角目暗滅法にアメリカの雑誌なんかを引繰り返しては、成程プランはこうなつて居るのか、廊下がぐるつと廻つて両側に部屋がある。さうしてエレヴェーターをくつ付ける。アメリカばかりぢやありませぬ、保岡さんはフランスが好きでフランスの雑誌が澤山あつた、そんなものを色々引繰り返して、ようやく概念を得ましたので、それらを御手本にしてどうやらプランとエレヴェーシヨンを作り始めました。さうしてそれが大体出来上つた所で12月に兵隊に行つてしまつたのです。さうして1年あまり経つて兵隊から出て来ますと云うと自分の作つた設計を基として実施設計が出来て居て、どんどん工事が進められて居る。喫驚した訳です。あれやつて居るのかと云う工合……。実は私の兵隊に行つて居る間に保岡さんも辞められた。それですから主立つた人と云うのはない訳なんです。それでまあ合議制か何かで以て工事はどんどん進む、私が兵隊から出て来たら、もう鉄骨が立つて居る。
さう云ふやうな状態で出来た建物ですから構造は兎も角プランでもエレベーシヨンでも附帯設備でも皆今から思はなくても其当時でも実にに変てこりんな建物なんです。唯最後に櫻井さんが来られまして余り可笑しい所は直して下すつた。私が今でも覚えて居るのは角の所に丸い塔がある、其の塔の屋根が丸い屋根なんですが、私が初め書いて置いたのは非常に恰好が悪い、それを櫻井さん直して下さつて、出来上つてまあまあ見られると云ふ工合になりました。」
(『建築雑誌』創立50周年記念号)
この回想によると、明治44年の秋頃に、保岡技師長の下、藤村朗の担当で設計がスタートし、12月までには大筋が固まり、翌45年に起工し、そのかたわら実施設計の詰めも行われていたことが知られる。大正2年の3月に顧問に就任した(正式入社は大正3年2月)桜井小太郎が工事中の建物の角のドームの姿を訂正したこともわかる。
基本設計は保岡時代に決められ、実施設計は、保岡なき後に残った面々によって詰められ、工事が進められ、大正3年6月に完成されたことになるが、このビルの生命は仕上りの善し悪しより基本設計にあることを考えると、保岡時代の最後を飾る仕事といっていいであろう。担当者は藤村だが、どんな設計にも担当者はいるものであり、保岡勝也の設計、といっていい。
大正3年に出来上がったときの写真を見ていただくと、ただ大きいだけのビルのようにも見えるが、このいささか精彩に欠けた建物のどこに時代を画すような力が隠されているのだろうか。
第21号館1階平面図 大正2年6月12日
すべて秘密はプランに合った。
見ていただこう。1号館から20号館までとはまったく違った平面計画となっているのが理解されよう。棟割り形式になっていないのである。大きなビルの四隅に設けられた入口を入るとホールそして廊下があり、その廊下に面して各部屋が並んでいる。今から見るとあまりに当り前の計画だが、貸ビルでありながら共通の出入口とホール、廊下、エレベーター、便所、湯沸所を持つなどということは、明治期にはとても考えられないことだった。それまでは会社にせよ個人にせよ借り手は一国一城意識が強く、自分が入るのはあくまで自分だけの場であることを望み、そのため入口も廊下も諸設備すべてそれぞれに据え付けられる棟割り形式ばかりだったのに、ここで初めて区分された床だけを貸す形式のオフィスビルが実現した。21号館こそ今日の貸ビル形式の丸の内における第1号ということになる。
この形式がなぜ合理的かというと、棟割り形式だとそれぞれに玄関、ホール、廊下、便所などを付けるから、実際に業務に使える面積は少なくなってしまうのに対し、共通で使うから3つ必要なものはひとつで済み、その分、貸し床面積の割合を増すことができる。このことは建物の高さが高くなり、エレベーターを使うようになると決定的で、棟割り形式だと各戸にエレベーターをつけなければいけない羽目になる。エレベーターが不可欠な4階以上のビルでは必然の道なのである。
こうした近代的な形式のビルが日本に最初に登場するのは、21号館の前年の明治45年11月で、日本橋室町の三井の土地の一画に横河工務所の設計でエレベーター付き6階建ての三井貸事務所が出現している。三菱は三井に一歩遅れたことになるが、おそらく、お互いに知らずに、時代の趨勢を読んでそれぞれ取り組んだ結果だろう。
こうした床だけを貸す合理的なビル形式を大いに発達させたのはアメリカで、21号館もアメリカに学んだものと思われる。担当者の藤村が先の回想で、「アメリカの雑誌なんかを引繰り返しては、成程プランはこうなって居るのか、廊下がぐるっと廻って両側に部屋がある」と語っている通りにちがいない。21号館の登場によって1号館以来のイギリスの伝統は丸の内から消え、アメリカが取って替わるようになる。
21号館は大筋ではアメリカ式オフィスビルの基本を踏まえているが、ひとつエレベーターの配置はハズしてしまった。
藤村の失敗談を聞こう。
「エレヴエーターはオーチスのエレヴエーターを付けてあるのですが2台ある。プランが大きいものですから之を1台づつ分けて別な所に付いて居る。今から考へるとそんな馬鹿なプランはないのですが、建物が広いのだから両端に無いと具合が悪いと云う訳で1台づつ付けた。現在もそのままになつて居ります。表に近い方は非常に込むのですが奥の方のはちつとも込まない、可笑しな話ですがそう云う知恵しか当時出なかつたのです。櫻井さんが見えてから三菱の本社の建築をやりましたのが其直ぐ後ですが、其時に櫻井さんが相当大きな面積であるに拘らず2台のエレヴエーターをちゃんと並べた。成程なあと思つて感心したのです。それから以後というものはエレヴエーターは2台あれば2台並べるし、3台あれば3台並べると云ふことになりましたが初めの時にはそれが分らなかつた。」 (『建築雑誌』前出)
引用ばかりで申し訳ないが、21号館についてはエレベーターがらみの面白い話がもうひとつ伝えられている。桜井小太郎の回想。
「私は21号館の落成する3、4月前に三菱に入つたのですが1、2点記憶に残つた所を申上げますと、此建物では家賃の単価が昔の通り1階が1番高く、上に昇る程安くなつて居た、すると最初借入を申込んだのが米国貿易会社で是非最上層全部をとの事であつた、それから三菱地所部でどうして1番便利な1階を望まずに最上階を望むかと云ふ点を考えると、昇降機が有る為各階の利用価値がほぼ同じく、上層は静かで採光も好いに拘はらず、こちらの家賃を安くしたのであるから上層から塞がつて行くのは理の当然であることを発見した、つまり多年貸家を営業とする家主が借り手から貸家賃の極め方を教へて貰つた姿となつた。」 (『建築雑誌』前出)
初めてのことはやってみないとわからない。
以上が21号館のちょっと奇妙なところはあったものの画期的な平面計画についてである。
第21号館 鉄柱及び鉄筋コンクリート柱配置図 大正2年2月8日
第21号館 1階床鉄筋梁詳細図 大正2年2月1日
工事中の第21号館
第21号館8角広間詳細図 大正元年9月19日
次いで、このビルの構造技術について述べると、相当にキッカイなシロモノであった。21号館関係の図面に「鉄柱及鉄筋コンクリート柱配置図、大正2年2月8日」と表題された奇妙な図があるが、これを見るとオフィスビルなのに平面計画上、柱の位置がちゃんと縦と横、通っていないのである。縦が通れば横は間隔が乱れ、抜けたりもする。どうみても部屋の都合や相互の取合いで場当りに決めたとしか思えない箇所も多い。
さらになんと、鉄の柱と鉄筋コンクリートの柱が交互に?そう交互に並んでいるではないか! せめてどっちが主要でどっちが補助的とか使い分けていれば同情の余地もあるが、ほぼ同等にバラ撒いている。
こんな構造は建築史上ほかに例がないから、結局やめた計画かとも思ったが、大正2年2月といえばすでに起工済みで、完成の前年に当たるから本当にちがいない。このビルの構造を担当した横山鹿吉の印も岩崎小彌太の承認印もちゃんと押してある。
それまでの丸の内のビルは赤煉瓦造だったのだから、画期的進歩にはちがいないかもしれないが、それなら鉄でもコンクリートでも一方にして欲しかった。
藤村自身も「随分可笑しな建物でありまして」(『建築雑誌』前出)
と述懐しているが、その通りであった。
このように初めて故の奇妙さも目立つが、そして、基本的な新しさを持ったビルなのに外観は赤煉瓦で仕上げたことに釈然としない点も残るが、にもかかわらず、この21号館の完成によって、明治いっぱい続いた丸の内の棟割り形式によるイギリス系赤煉瓦建築の時代は基本的に終わり、大正期にふさわしくアメリカ系の合理的なビルの時代が始まるのである。
以上が保岡時代についてである。
これらの丸の内関係のほか保岡は三菱関係の仕事をいくつも手がけているので、それらについても軽く触れておこう。
地所に保管されてきた図面のうち、保岡が技師長のときのものは基本的には保岡の仕事と見ていいのだが、次のようなものがある。
〇駒込御邸温室及び牛舎(明治39~40年設計)
〇小岩井農場倶楽部(明治40年設計)
〇三菱合資会社新潟事務所(明治41年設計)
〇三菱合資会社唐津出張所(明治41年完成)
保岡は退社直前の明治45年4月に自作集ともいうべき『新築竣工家屋類算』第一集(第二集が出たかは不明)を刊行している。当時、建築家の作品集は、若くして病没した山口半六の仕事が知友の手で刊行されていただけであったから、本邦第2号ということになり、生存者としては最初の刊行になる。保岡の生き方がうかがわれる出来事である。
この作品集は、大学卒業後ただちに三菱入りした保岡が、退社までの間、業務以外にアルバイトとして手がけた設計を並べているが、その中に名は伏せているものの岩崎家深川別邸の池の御茶屋、六義園の温室、前出の初代の静華堂文庫、小岩井農場の客館などの岩崎家関係が載っている。これらは、保岡も作品集の冒頭に断っているように会社での設計ではないが、しかし、地所に同一の設計図面が保管されている六義園の温室については、工事を地所が手がけたにちがいなく、地所の仕事にも数えられる。
保岡時代の丸の内以外の建物については、曽禰同様、ベージを改めて解説し、ここでは触れない。
→資料 丸の内街区以外の四建築家の作品
工事中の第21号館
第21号館の工事現場で。保岡勝也(前列左)の姿が見える。
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