[CONTENTS]
「第1号館」(1894[明治27]年竣工)の竣工は、「オフィスビル」という分野において、構造技術を実践する場が開かれたことを意味していた。地震国である日本で欧米流の煉瓦造をどう適用すべきか、オフィスとしての建築的価値を高めるため、構造はどうあるべきか。当時の技術陣が、安全に、合理的に建物をつくるため施した数々の工夫を、古図面から読み取ることができる。
「第1号館」は煉瓦造であり、最大厚さ80cmを超える頑強な壁が外周を囲む「壁式構造」である。壁を多く入れ建物全体を堅くして地震に抵抗する構造であり、外壁だけでなく間仕切りも煉瓦壁となっている。床は防火性を考慮して、約12cmのコンクリートが鋼板波板の上に打設され、30cm程度の梁せいを持つ鉄骨梁が、煉瓦壁の間に架け渡されている。
鉄骨梁は煉瓦壁に埋め込み、抜けないように緊結されており、地震時に壁同士が別々に動かないよう一体性を確保する役割も担っていた。壁を梁で繋ぎとめる方法の背景には、ジョサイア・コンドル(1852─1920年)の構造に対する慎重な姿勢があったと考えられる。彼は「第1号館」竣工の3年前に濃尾地震(1891[明治24]年)の被災地を視察しており、耐震性を高める手法を造家学会(現 日本建築学会)で紹介していた。ここでコンドルは煉瓦造の弱点は壁と梁の接合部にあると指摘し、両者を緊結する場合と、しない場合との客観的な比較を行った上で、壁を梁で繋ぐことの有効性を論じている[1]。
「震災ニ遭ウテ家屋ノ傷ミタル多ク木造床組ノ各部ガ個々孤立ノ姿デアッタル為メナラント私ハ思ヒマス……若シ其西洋風ノ床組ガ……縦ニモ横ニモ確ト繋キ合セテ……四方ノ屋壁ト離レヌ様ニ堅固ニ取付ケテアリマシタラバ……今回沢山実例ヲ遺シタル或ル一部分ニハ軽ク当リ或ル一部分ニハ重ク当タルト云フ様ナ『ムラ』ヲ生ズル事ナカラウト考ヘマス」
以降の煉瓦造オフィスでも壁・梁の一体性を確保されているが、それはコンドルの耐震設計に対する深い洞察に端を発していたと言える。
[1]ジョサイア・コンドル「各種建物二関シ近来ノ地震ノ結果」(『建築雑誌』No.63~65、 1892[明治25]年3~5月)
「第1号館」の竣工からおよそ20年、1912(明治45)年竣工の「第14号館」にて決定的な構造の進歩が見られる。それは鉄筋コンクリート造の登場である。従来は80cmもあった分厚い煉瓦壁が、25cmの薄いコンクリート壁に置き代わった。オフィスの執務空間は広くなり、貸床面積の割合も格段に向上した。
日本における鉄筋コンクリート造の導入は既に始まっており、白石直治(1857─1919[安政4─大正8]年)の「和田岬東京倉庫」(1906[明治39]年竣工)[2]と遠藤於菟(1866─1943[慶応2─昭和18]年)の「三井物産横浜支店」(1911[明治44]年竣工)[3]が嚆矢だろう。ただし、このふたつの前例と「第14号館」とでは相違点があることに気付く。前者は梁に生じる曲げを柱へと伝える、当時としては最新鋭のラーメン構造を採用したのに対して、「第14号館」では「第1号館」から続く壁式構造を踏襲しているのである。
「第14号館」のコンクリート壁の使用方法は、それまでの煉瓦造オフィスと酷似している。まず、下層に向かうにつれ壁厚が厚くなっている点、次に、壁厚が変化する境界部分に突起を設け、床・梁を架けている点である[4]①。窓の大きさや外観を見ても、煉瓦造オフィスから著しい変化は見られない。
当時の鉄筋コンクリート構造の設計は建築雑誌に連載された記事などを頼りに、かなり経験的に行われていた[3]。新しいラーメン構造を採用する前に、これまで実績として積み上げてきた壁式構造を基本形として、煉瓦造が鉄筋コンクリート造へ置き換わったのだと考えられる。
[2]竹山謙三郎「我が国最初の鉄筋コンクリート造の設計と施工」
(『建築技術』No.202、 1968[昭和43]年6月)
[3]日本科学史学会編『日本科学技術史大系 No.17 建築技術』
(第一法規出版、1970[昭和45]年12月)
[4]蛭田真斗 山﨑鯛介 野村和宣「丸の内貸事務所の構造にみる鉄筋コンクリート造の導入経緯」
(東京工業大学卒業論文梗概集、2020[令和2]年3月)
①「第14号館」工事詳細図。壁厚が変化する部分に床が架けられている。
壁式構造として発展してきた三菱社のオフィスビルに、「ラーメン構造」の片鱗が現れるのは1914(大正3)年竣工の「第21号館」である。丸の内で最初の地上4階建てであることに加え、新たに鉄骨鉄筋コンクリート造が採用された建物としても注目される。ここでは、壁式構造がラーメン構造に移行した経緯を考察したい。
ラーメン構造では平面的な柱配置を直線上に揃え、柱を大梁で接合して門型のフレームを形成する必要がある。「第21号館」における鉄骨断面図を見ると、門型フレームが構成されているのは外壁や間仕切り壁の「壁面」であることが分かる②。なぜ、これまで構造体だった「壁面」において、新しくラーメン構造が導入されたのだろうか。
答えは、「第21号館」の外観を従来までのオフィスと比較すれば明らかになる。窓が格段に大きくなったのである。採光の大部分を自然光に頼っていた当時、窓を広げることは執務空間を快適にするための重要な要素だった。ラーメン構造導入の背景には、外壁の耐力を向上させ、窓を広くする目的があったに違いない。
ラーメン構造が導入されても、壁を構造体として重視する設計方針は踏襲されている。それまでのオフィスと同様、外壁・間仕切り壁を極力多く、かつバランスよく配置する姿勢は変わっていない。
基本的な構造は壁式構造を踏襲し、外壁における窓の拡張にはラーメン構造で対処する。まさに「第21号館」は、壁式構造からラーメン構造への過渡期を示す建物と言えるだろう。
②「第21号館」鉄骨組立図。外壁面に柱梁の門型フレームが形成されている。鉄骨の図面であるにもかかわらず、外壁の開口も併せて記載されている点が興味深い。
大正時代に入ると構造設計の手法は急速な進歩を見せ、重力や地震力の仮定からそれぞれの部材に生じる力を計算し、適切な断面を設定できるようになった。当初は手探りだったラーメン構造も、内藤多仲(1886─1970[明治19─昭和45]年)の計算図表(1915[大正4]年)やウィルバー・M・ウィルソン(1881─1958年)のたわみ角法(1917[大正6]年)の登場で容易に計算できるようになり、実務への応用が進んだ[5]。新たに佐野利器(1880─1956[明治13─昭和31]年)は、地震の強さの尺度として「震度」を提唱し(1916[大正5]年)、地震力を踏まえた本格的な耐震設計が可能となった[6]。こうした時代背景に後押しされ、完全な柱梁フレームを持つラーメン構造として「第22号館」(1918[大正7]年竣工)が竣工するのである。
三菱社のオフィスビルは建築家コンドルの「第1号館」に始まり、壁式構造を基軸として発展していった。新しい構造形式は一朝一夕に採用されるのではなく、従来までの設計を慎重に踏襲しながら段階的に実用化されたのである。西洋流の「壁式構造」が、今では当たり前の「ラーメン構造」へと進化するまでの25年間、古図面にはきわめてドラマティックな構造の変遷が記録されている。
当時の技術者たちの絶え間ない努力と挑戦に敬意を表したい。
[5]村松貞次郎『日本近代建築技術史』(彰国社、1976[昭和51]年9月)
[6]田 治米辰雄「解説 耐震構造のあゆみ」(『コンクリート工学』13巻11号、1975[昭和50]年11月)
[PROFILE]
谷口 洵たにぐち しゅん
1992年 | 岡山県生まれ |
2015年 | 東北大学工学部建築学科卒業 |
2017年 | 東北大学大学院都市建築学専攻修士課程修了 |
2017年 | 三菱地所設計入社 |
現在 | 三菱地所設計 構造設計部 |
野村 和宣のむら かずのり
1964年 | 東京都生まれ |
1986年 | 東京工業大学工学部建築学科卒業 |
1988年 | 東京工業大学修士課程修了 |
1988年 | 三菱地所入社 |
2001年 | 三菱地所設計 |
2018年 | 東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士(工学)取得 |
現在 | 三菱地所設計 執行役員 建築設計三部長 兼 デザイングループ業務部長 |