130th ANNIVERSARY

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三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973 三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973

官から民へ、ジョサイア・コンドルの足跡 ジョサイア・コンドル(1852─1920年)と三菱 著者/河東義之 [建築史家]

画像:『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』(三菱地所、1993[平成5]年3月)より転載)

コンドルの来日

明治初期、新政府の課題は、近代国家としての体裁を整えるための本格的な西洋建築の実現と、それを可能にする日本人建築家の養成であった。その役目を担ったのが、「日本建築界の父」と呼ばれた英国人建築家ジョサイア・コンドルである。

コンドルが日本政府の招聘に応じて来日したのは、1877(明治10)年1月であった。期限は5年間、本務は工部大学校造家学科(建築学)教師で、工部省営繕局の顧問建築家を兼務した。弱冠24歳のコンドルが抜擢されたのは、名門として知られたロンドン大学やサウスケンジントン美術学校で建築を学び、高名なロジャー・スミス(1830—1903年)やウィリアム・バージェス(1827─1881年)の建築事務所で実務に携わった経歴と、何よりも前年に彼が英国王立建築家協会主催の設計競技で権威あるソーン賞を受賞したことによるものであろう。

コンドルの建築教育

工部大学校は、設立当初(1873[明治6]年開校、当時は工学寮)から実技を重視した技術教育を目指しており、コンドルの教育も、西洋建築の知識だけでなく設計技術の修得と現場監理の習熟に重点を置いたものであった。営繕局顧問を兼任していたコンドルは、工部省から依頼を受けた建物の製図や現場監督にも学生たちを積極的に参加させている。彼が構造や材料にはきわめて厳格であったにもかかわらず、様式や意匠に関しては比較的寛大であったのも、また、仕様書や積算書の重要性をことさら強調したのも、同様の配慮の表れであろう。

コンドルは雇用期限を延長して1884(明治17)年6月まで工部大学校造家学科の専任教師を務めたが、その間、足掛け8年にわたって合計19人の日本人建築家を世に送り出している。初期の卒業生としては、辰野金吾(第1期卒業生、1854─1919[嘉永7─大正8]年)や片山東熊(同、1854─1917[嘉永7─大正6]年)、曾禰達蔵(同、1852─1937[嘉永5─昭和12]年)、藤本寿吉(第2期卒業生、1855─1890[安政2─明治23]年)等が知られる。

お雇い外国人建築家・コンドル

コンドルが来日早々に手掛けた建物としては、「訓盲院」(1879 [明治12]年竣工)、「開拓史物産売捌所」(1881[明治14]年竣工)、「上野博物館」(1881[明治14]年竣工)が挙げられる。次いで、文明開化の象徴とされた「鹿鳴館」(1883[明治16]年竣工)や、皇族殿邸の規範ともなった「有栖川宮邸」(1884[明治17]年竣工)と「北白川宮邸」(同年竣工)などを完成させ、その間、雇用期限を延長して皇居造営事業にも参画している。1884(明治17)年からは太政官(その後、内閣直属の臨時建築局)雇いとして中央官庁集中計画に携わった。ただ、コンドルが設計した「洋式宮殿(山里正殿)」は建設が中止され、中央官庁集中計画も結果的には未完成に終わっている。

コンドルが正式に官界を退いたのは1890(明治23)年であったが、既に1888(明治21)年、京橋区西紺屋町の官舎に設計事務所を開設していた。お雇い建築家としての役割が終了することを察してのことであったと思われるが、帰国せずに日本で建築活動を続けていく決意を固めたのは、来日以来、コンドルが続けてきた日本の文化・芸術の研究と実践が彼のライフワークであったためでもあろう。

コンドルと丸の内オフィス街

民間に下ったコンドルが最初に手掛けたのは、丸の内オフィス街建設の第一歩となる「第1号館」(1894[明治27]年竣工)であった。 1890(明治23)年3月、丸の内一帯の陸軍省用地の払い下げを受けた三菱社は、直ちに同社支配人の荘田平五郎(1847─1922[弘化4─大正11]年)を起用してオフィス街建設の準備に取り掛った。まず、コンドルを顧問建築家として迎え、彼の推薦によって工部大学校第1期生の曾禰達蔵を入社させている。コンドルが選ばれたのは、それまでの官界での実績に加えて、荘田が英国式のオフィス街を目指していたことと、前年に竣工した三菱社社長岩﨑彌之助(1851─1908[嘉永4─明治41]年)の「岩﨑家深川別邸洋館」(1889[明治22]年竣工)の実績があったからであろう。「岩﨑家深川別邸洋館」の建設に際しては、やはり工部大学校第2期生の藤本寿吉が三菱社に入社して現場監督を務めたが、竣工直前の1889(明治22)年10月に病気のため退社している[1]。

曾禰の入社後、三菱社内には工事を担当する丸ノ内建築所(後の地所部工務課、現在の三菱地所設計)が設置され、計画に先立って建設予定地の地質調査(ボーリング調査)が実施された。その結果、丸の内一帯は「近代の高層建築には至て不向きの地層なること」[2]が確認されている。そのことを踏まえて、コンドルによる「第1号館」の設計が開始されたと考えられるが、さらに着工直前の1891(明治24)年10月に濃尾地震[3]が発生したことから、より強固な構造への設計変更が行われている[4]。コンドルがいち早く濃尾地震の被害状況を調査して煉瓦造建築の耐震補強を提案したことはよく知られているが[5]、この時の調査は岩﨑彌之助からの依頼でもあったとされる[6]。

1894(明治27)年12月に竣工した「第1号館」は、英国クイーン・アン様式の華麗なオフィスビルであると共に、コンドルが来日以来蓄積してきた基礎構法や耐震構法の実績と濃尾地震の教訓を集大成した耐震煉瓦造建築として、その後の丸の内オフィス街の規範となった。翌1895(明治28)年に竣工した「第2号館」もまたコンドルの設計で、いずれも現場監督は曾禰達蔵が丸ノ内建築所を率いて担当した。その間、実現はしなかったものの、コンドルによってオフィス街に計画された劇場と美術館の設計も行われていたことが知られる。

[1]藤本寿吉は、1880(明治13)年5月に工部大学校造家学科を卒業し、工部省営繕局、宮内省内匠寮を経て1886(明治19)年10月に三菱社に入社し、1889(明治22)年10月に退社、1890(明治23)年7月に逝去している。「故藤本壽吉氏小傳」(『建築雑誌』 51号、1891[明治24]年3月)
[2]宿利重一『荘田平五郎』(対胸舎、1932[昭和7]年)
[3]1891(明治24)年10月8日に発生した岐阜県本巣市を震源地とする直下型地震。後の推定でマグニチュード8.0、最大震度7と推定されている。
[4]河東義之『ジョサイア・コンドル建築図面集 Ⅱ』(中央公論美術出版、1981[昭和56]年)
[5]ジョサイア・コンドル「各種建物ニ関シ近来ノ地震ノ結果」(1892[明治25]年1月27日の造家学会での講演)(『建築雑誌』63~65号、1892[明治25]年3~5月)
[6]原徳三「コンドルをめぐる人々」(『「鹿鳴館の建築家 ジョサイア・コンドル展」図録』東日本鉄道文化財団、1997[平成9]年)

邸宅建築家コンドル

コンドルはその後も精力的な建築活動を続け、一時期、横浜に事務所を移して居留地の建築も手掛けている。しかし1904(明治37)年に麻布三河台町に自邸兼事務所を建設した頃から、彼の作品は富豪たちの邸宅建築が中心となった。元来、コンドルが最も得意としたのは、華麗で気品あふれる上流階級の邸宅建築であったが、そのきっかけとなったのは、岩﨑家との関わりである。コンドルがいつ頃まで三菱社の顧問を務めたかは不明であるが、先に挙げた「岩﨑家深川別邸」や現存する「岩﨑家茅町本邸」(1896[明治29]年頃竣工)をはじめ、岩﨑家の洋館はほとんどがコンドルに依頼されており、同家と姻戚関係にあった「松方正義邸」(本邸および別邸、1905[明治38]年竣工)や「加藤高明邸」(1911[明治44]年竣工)の洋館も同様であった。なお、これらの邸宅に関しては、設計図が三菱地所にのみ現存していることから、コンドルの下で当時の丸ノ内建築所が図面の作成や設計監理に携わった可能性が強い。

このほか、コンドルの下には三菱社関連企業の経営者をはじめ、岩﨑家以外の富豪たちからも邸宅や倶楽部の注文が相次いでいる。現存する「綱町三井倶楽部」(1913[大正2]年竣工)、「島津家袖ヶ浦本邸」(1917[大正6]年竣工)、「古河家西ヶ原本邸」(同年竣工)などはいずれも晩年の代表作である。

コンドルの邸宅作品は常に日本人建築家の追随を許さぬ質を示していたが、設計に関してはきわめて柔軟であり、常に施主の意向を重視し、決して自らの提案を押し付けることはなかった。建築家として最も重視したのが施主との信頼関係であったことは、これらの邸宅の多くが、設計だけでなく施工(工事)も含めてコンドルに依頼されていたことからもうかがえる[7]。コンドルはまさにわが国における邸宅建築の第一人者でもあった。

なお、コンドルが逝去したのは1920(大正9)年6月21日であった。告別式は聖アンデレ教会(飯倉教会)で行われ、11日前に先立ったくめ夫人と共に護国寺墓地に埋葬された。

[7]例えば、島津家本邸に関しては「建築師契約」と題する契約書案が現存しており、それによると、建築師ジョサイア・コンドルの役割は「設計及建設ノ實行」と記され、その具体的な内容として、詳細図・仕様書・見積書の作成、材料および工事の契約、工事監督者の指揮、施工の監督、材料および工事請負人や諸職人への支払い、工事完成後の受取書および決算書の提出、等が列記されている。

[PROFILE]

河東 義之かわひがし よしゆき

1943年 愛媛県生まれ
1967年 東京工業大学理工学部建築学科卒業 同大学助手
1976年 国立小山工業高等専門学校助教授
1989年 同高等専門学校教授
1999年 千葉工業大学教授、国立小山工業高等専門学校名誉教授
現在 国立小山工業高等専門学校名誉教授 工学博士