第2章
丸の内にオフィス街が生まれた事情
ついに明治政府による新首都・東京の都市計画が始動しました。渋沢栄一らの主張により、明治初期のビジネス中心地だった兜町(日本橋)の賑わいを、当時草原だった官営地・丸の内に移すことになり、民間企業への払い下げが決定します。果敢にも、岩崎彌之助率いる三菱社は、そこに手を挙げました。
当時、海運を事業基盤としていた三菱社が、なぜ他社と共同することもなく、身を切ってまで一社単独での購入に踏み切ったのか? そこには、イギリス・グラスゴーからの1本の電報と、「海から陸へ」という大きな事業転換への、社運を賭けた挑戦があったと述べられます。いよいよ今日の私たちの創業の地である丸の内が産声を上げようとしています。
明治22年、深川別邸の工事がいよいよ完成に近づいた頃、三菱は大きな岐路に立たされていた。自分で進んで入った岐路というより企業活動を続けているうちに向こうのほうからやってきた岐路で、丸の内を買うか買うまいかという問題である。
明治政府は明治21年8月、新しい首都東京の都市計画の根幹をなす東京市区改正条例を公布し、次いで22年5月、具体的な計画図を公示したが、その中には丸の内を新しい経済中心にすることが明らかにされていた。東京の中心に位置する丸の内の広大な土地を民間に払い下げ、そこに来るべき日本のオフィスビル街をつくり上げようというのである。
これを買うべきかどうか。
結局、彌之助の決断によって買うことになるのだが、三菱が買ったことの意味をより深く理解するために、それまでのつまり明治前半のビジネス街事情についておさらいしておく。
詳しくは拙著『明治の東京計画』(岩波書店)を読んでいただきたいのだが、ふつう日本のオフィス街というと丸の内から始まったと思われがちだが、そんなことはない。すでに三菱や三井などの近代的な企業や経済機構は誕生しており、そうした経済関連法人が集まって機能する街は当然のように形成されていた。兜町を中心に南茅場町と坂本町を含めた一帯である。そう、今の株式取引所や株屋さんの店がひしめくあたりが明治前半のビジネスの街だった。これを“兜町ビジネス街”という。この街づくりの中心に立っていたのは“日本資本主義の産みの親”渋沢栄一で、彼は明治のごく早い時期からここに目を付け、三井と組んで動き、ここに生まれたばかりの民間企業と経済組織を集中させることに成功した。
明治前半にここで創業されたり、ここに転入して本社を構えた会社をあげると、第一銀行、三井物産、明治生命、東京海上、王子製紙、島田組、三菱社、第三五銀行、がある。経済組織としては、株式取引所、商工会議所、銀行協会。さらに経済ジャーナリズムの日経と東京経済雑誌がこの一画でスタートする。
民間企業の名と経済組織のラインナップを見れば、こここそが日本の資本主義経済の誕生の地であることが納得されよう。
渋沢はこうした実績を踏まえて明治政府の東京都市計画である市区改正計画に働きかけ、それも三井の益田孝とともに民間企業代表委員としてこと細かに計画図に自分たちの意向を反映させ、明治18年に成案なった“市区改正審査会案”では、兜町の東の隅田川河口に国際港を設けて横浜の港湾機能を移し、西の丸の内位置には中央ステーションを置き、両者を2本の幹線でつなぎ、その中央にちょうど兜町がはさまるように決めさせたのだった。しかし、国際港を東京に移すことへの横浜勢力の猛反対によりこの大計画が潰れると、次に渋沢と益田は中央ステーションの前に広がる陸軍の用地を一括して民間に払い下げ、そこに兜町のビジネス街を移すことを求めた。第一国立銀行頭取の渋沢栄一そして三井物産社長の益田孝としては手塩にかけた兜町ビジネス街だったけれど、国際港に近いという地の理が消えると狭いことだけが欠点として浮かび上がらざるをえない。それに比べれば丸の内は広いし、白紙の上にビジネスにふさわしい新しい街づくりもできる。
こうした渋沢、益田の主張に従い、明治22年公示の市区改正計画では丸の内の一括払い下げとオフィス街化が世に示された。
そこで民間の誰がこの払い下げを引き受けるかの大問題が生じたのである。
ともかく広大で、払い下げ金額は類のないほどの嵩(かさ)だから引き受けられるのは大実業家しかいない。政府は当時の大実業家の面々を呼んで引受けを求めたが、これに対し2本の手が挙がった。1本は渋沢栄一、三井八郎右衛門、大倉喜八郎、渡辺治衛門ほか2名の連合体で、リーダーシップは三井と渋沢にあるとみていい。そしてもう1本が岩崎彌之助。
これまで、といっても十数年前までだが、丸の内の払い下げは政府が三菱の岩崎に頼み込み、岩崎はシブシブこれを引き受けた、というような印象の話が、おそらく三菱がつくった話と思われるが、長らく伝えられてきた。しかしこれが正確ではないことが三菱グループが昭和46年に刊行した『岩崎彌之助傅』の中で明らかにされ、今では丸の内の土地をめぐって三井・渋沢連合と岩崎の間で綱引きが行われていたことが知られている。
「三菱ヶ原」と呼ばれていた丸の内の原風景
なぜ三井・渋沢などの連合体対ひとり三菱というかたちで争われたんだろうか。少し明治の経済史に詳しい人ならただちにうなずかれるように、この対立の根は深く、明治16年から18年にかけて三菱と反三菱連合の間で苛酷に闘われた海運の覇権争いにさかのぼる。そのときもひとり三菱と三井や渋沢などをバックとする反三菱連合という構図になり、結局、両者痛み分けというかたちで幕が下りたが、三菱は祖業にして本業の海運業を手離し、日本郵船会社をつくることに同意せざるをえなかった。おまけに、この争いの心労がもとで創業者の彌太郎は病没したとさえいわれている。
こうした経済グループ間の競争の構図は、兜町ビジネス街の場合もあながちなかったとはいえない。兜町をビジネス街にしようとしたのは三井と渋沢にほかならず、当然一番いい場所は両者が占有し、三菱は南茅場町のはずれのほうに位置せざるをえなかった。経済ジャーナリズムの立地をみると端的で、渋沢に極めて近い東京経済雑誌社は渋沢の根城の第一国立銀行の建物にあり、三井系の日経も一画にあるというのに、三菱系の東洋経済はこの街に入っていない。兜町ビジネス街のふたつの声ともいうべき日経と東京経済雑誌はことあるたび、ともに反三菱のキャンペーンを張っており、三菱にとってははなはだ耳障りなところとなっていたにちがいない。
以上やや長くなったが海運の争いのことと兜町での三菱の借りてきた猫のような立場を知った上で、さて、問題は丸の内の払い下げである。
この払い下げが何を意味するかは三井にも渋沢にも岩崎にもよくわかっていた。
オフィス街という日本の経済の器を誰が握るか、である。もし三井・渋沢連合がリーダーシップをとれば、岩崎の三菱は兜町同様また借りてきた猫にならざるをえないだろう。一方、岩崎の手に落ちれば三井・渋沢は明治のごく早い時期から兜町で営々と築いてきたビジネス街づくりの実績を一気に失う羽目になる。
丸の内の土地に手を挙げた両者は、おそらく水面下で相当の掛引きをしたものと思われる。なぜなら、金額があまりに高くてとても片方だけで引き受けられそうもなく、何らかの共同歩調が必要となるからである。『岩崎彌之助傅』で初めて公開された両者の“念書”を見ると、ギリギリの交渉があったことがうかがわれる。念書によると一時は両グループで手をつなぎ岩崎彌之助の名で一括払い下げを受けた後で分けるという合意がなされたが、しかし、なぜか彌之助は突然の翻意をみせ、三菱一社で一括して引き受けることに決めてしまった。全地一括ひとりへというのが政府がつけた払い下げ条件であるから、寄合い所帯の三井・渋沢連合の側に全地を引き受ける決断はとても無理であった。
彌之助が、なぜ渋沢栄ーとの膝詰め談判で一時は約束した共同払い下げの方針を変えたかについての理由は記録されていない。
彌之助が丸の内の将来性に目ざめたのは、よく知られたエピソードだが、グラスゴーからの一通の電報だったという。海外事情の調査のためイギリスのグラスゴーにたまたま滞在していた莊田平五郎と末延道成が、ある日、ホテルに届いた日本の新聞に目を通すと政府が市区改正計画に際し丸の内払い下げの方針を決めたという一件が報道されており、市区改正計画の意味と動向を克明に知っていた莊田がいい出したにちがいないが、これは見逃せないとばかりに電報を打ち、何とか手に入れるよう彌之助に求めたというのである。そのとき、ふたりが念頭においたのはロンドンのオフィスビル街の繁栄であり、とりわけロンバード街だったという。
このエピソードは彌之助に丸の内の重要性を気づかせたという点ではその通りにちがいないが、しかし、共同払い下げをやめる決断の話とは関係しない。
時間の順を追えば、政府の払い下げ方針が出され、この話が政府より大実業家各位へと持ちかけられ、一方、新聞報道によってグラスゴーに伝わり、それを目にした莊田らが彌之助に電報を打ち、彌之助がことの重大性に目ざめ、渋沢らと共同で受けることにした、というところ以後が問題なのであって、なぜ彌之助は一手引受けという大バクチを打ったかである。共同払い下げでも丸の内の半分は岩崎にくる予定であったから、それでも当時としては十分過ぎるほどではなかったか。実際十分過ぎて、明治の間には全体の半分も埋まらず、全部にビルが建ったのはなんと戦後になってからであることを思うと、明治22年の段階の彌之助の決断はほとんど無謀としかいえない。
その無謀を冒すだけの理由となるとよほど三菱の根幹に関わることでなければならないが、とするとやはり先に述べた海運の覇権争いの一件につながる問題ではないだろうか。あの事件の処理は、当時の三菱の祖業にして本業の海運業を日本郵船会社にして切り離し、三菱はその株の半分ほどを持つというかたちで収まったが、しかし、それは岩崎家の“すべての事業は岩崎家の直接傘下に”という固い経済理念にそぐわない。おそらく彌之助は祖業とはいえすでに傘の下から半ば外にはみ出してしまった海運業から手を引く決断をしており、その代りの新規事業を求め、丸の内の土地開発にかけたのではないか。この推測は、『岩崎彌之助傅』の中で“海から陸へ”というわかりやすい言葉で指摘されていることだが、僕もその通りだと思う。
事実、払い下げ代金は日本郵船の株を処分して当てられている。ただし、それだけではとても足りないが、それがどこから捻り出されたのかは不明という。
祖業に代るもの、というくらいの意気込みがなければ、これだけの大バクチは打てなかったにちがいない。
以上が三菱が丸の内を手に入れた粗筋だが、余談風に小さな疑問をひとつここに記しておきたい。例のグラスゴーからの電報の一件である。莊田らはロンドンのロンバード街のようなストリートを日本にもつくりたいと念じて、丸の内の購入を勧めた、と伝えられているのだが、果たして本当だろうか。
この話の文献上の初出は昭和16年に刊行された『丸ノ内今と昔』だから、おそらく莊田がしばしばそのように周囲に語っていたにちがいない。もちろん僕もその話を信じ、“ロンバード街にならった丸の内の一丁ロンドン”といった記述を何度かしたことがある。そしてロンドンに行ったとき、ぜひとも丸の内の手本を見たいと思い、地図で調べるとロンドンの金融の中心地“シチー”の一画にあるからフムフムいかにも丸の内の母にふさわしいと期待して出かけた。そしてアゼン。シチーに行くと確かにロンバード街の表示のある通りはあるのだが、道幅は車1台がようやく通れる程度で、長さも100メートルそこそこ。加えて道はカーブしつつ小さく傾斜している。建っているビルは石造のしっかりしたものだが、通りの形状としては、シチーの中心の通りでもなんでもないただの路地に過ぎない。どう見たって丸の内の一丁ロンドンのほうが立派としかいえない。
なぜ莊田はこんな通りのことに言及したんだろうか。
現在、三菱信託銀行のロンドン支店がこの通りの一番立派なビルを占めているのを見て考えたのだが、かつて三菱のロンドンの拠点がこの通りに置かれていた可能性はないだろうか。
今の僕にはその程度の憶測しかできない。
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