第1章
岩崎家時代
第1章では、今日の三菱地所設計のはじまりとされる、明治23年の「明治政府から三菱社への丸の内一帯の払い下げ」とそれに伴う「丸ノ内建築所」の設置、曽禰達蔵の入社とジョサイア・コンドルの顧問就任……といったエポックメイキングな出来事からさらに遡り、明治11年に三菱社内に「地所係、営繕方」が設置されてからの十数年を辿ります。
この「前史」とも言うべき時代、当初は土地家屋の大工仕事からスタートした事業は、明治政府のお雇い外国人や、欧州で研鑽を積んだ建築家、日本最初期の建築教育を受けた建築家らが次々と三菱の門をくぐり、日本の近代化と同期しつつ、その足跡を残しました。
今日の三菱地所の設監部門の元をたどれば、明治23年9月、丸の内のオフィス街の開発のために三菱社の中に丸ノ内建築所が設けられ、曽禰達蔵が「建築士」として入社し、コンドルが顧問として入ったときまでさかのぼることができる。つまり、102年前の明治23年、コンドルと曽禰達蔵のふたりを建築家として地所は誕生したといえるわけだが、しかしそれに先立って前史に当たる時期がある。
それも、地所設監部門の起源をここまで引きあげてもいいくらいの充実ぶりを見せる時期がある。明治11年三菱社の中に「地所係、営繕方」が設置された。当初は所有の土地家屋の管理やせいぜい大工を使って和風の家屋を建てるのが仕事にすぎなかったが、数年すると、にわかに充実ぶりを見せ始める。
レスカスの登場
最初の充実はフランス人建築技術者のジュール・レスカス(Jule Lescasse)によってもたらされた。
三菱とちぎりを結んだ最初の建築家にちがいないのだが、しかしその経歴は半分ほどしかわかっていない。当時、東アジア各地には“渡り鳥建築家”とでもいうべき欧米出身の一群の建築技術者たちがいて、香港、上海の居留地や日本といった新開地での仕事を引き受けていたが、どうもレスカスもそうしたひとりとして日本に上陸したもようである。上海か香港あたりからであろう。明治4年ごろに神戸にやってきて、明治政府の生野鉱山の工場建設を手がけた後、上京して横浜に事務所を開き、ニコライ邸(明治8年頃)、大山巌邸(明治12年起工)を設計し、そのかたわら世界的な建築金物商ブリカール兄弟社の日本代理店を営んだりしている。
工場を手がけたり、金物商の代理店を営んだり、こうした経歴からうかがわれるのはアーキテクトというより何でも屋的な建設技術者の面(かお)で、日本の地にすぐれたデザインを実現しようと考えた人ではなくて、やはり一旗あげるのを夢見てフランスからやってきたのであろう。
その渡り鳥レスカスが三菱とちぎるのは明治13年頃で、おそらく御雇外国人的もしくは顧問的な立場で関係を持ったものと思われる。
その頃のレスカスは、すでに明治政府雇のコンドルの来日があった後だから第一線からは退いていたが、それでも政府に籍を置かない民間の外国人建築家の中ではナンバーワンの実力を持っていた。
三菱は、選択可能な枠内で一番優秀な建築技術者と関係を持ったわけである。
しかし、なぜこの時期、外国人にまかせるほどの仕事が社内に発生していないのに、わざわざレスカスを招いたかはどうもはっきりしない。その証拠に、明治13年頃から数年の間、レスカスが手がけた仕事は赤煉瓦造の横浜支店と木造の函館支店の2件しか知られていない。彼の腕が三菱で発揮されるのはだいぶたってからで、明治17年に大阪出張所が、明治19年に“三菱の七ツ蔵”が完成している。
七ツ蔵は、日本橋川の四日市河岸に建つ七連の赤煉瓦倉庫で、海運会社としてスタートした三菱にとっては耐火性の高い洋風の赤煉瓦倉庫の建設は近代化に欠かせない事業であった。また、都市景観という点でも、日本橋川のほとりに軒を連ねる三菱マーク入りの洋風倉庫は東京市中の名物景観のひとつとなった。三菱が都市の中で建築的な“自己主張”をした最初の作品といっていいであろう。
そのレスカスがいつ三菱と切れたかはわからないが、明治19年にはコンドルが入っているから、その前に切れたにちがいない。三菱を離れてからの事蹟ははっきりしないが、明治21年頃には日本を去り、フランスに帰ってからはアルジェリアの石油会社の技術者として働いている。
山口 半六
レスカスにやや後れて次に三菱に入ったのが山口半六である。レスカスの三菱での立場はいまひとつはっきりしないが、山口の場合はわかっていて社員として明治15年1月に正式に入った。三菱の記録には、「職名:本社建築師助役、給料:七拾五圓、傭入月日:明治十五年一月二十日」(『三菱社誌第10巻』)とある。
山口の経歴は克明に判明していて、安政5年松江に生れ、明治9年、大学南校を成績優秀で終え、明治政府の留学生に選ばれてパリの工業中央専門学校(エコール・サントラル)に入り、明治12年に修了し、その後2年ほど建築の実務や煉瓦製造法について体験した後、明治14年に帰国し、翌15年1月に三菱社に入った。
入社したときはレスカスがすでにいたから、この時期の三菱はフランス系のふたりの建築家を擁していたことになる。当時の三菱がフランス系に肩入れしていたとも思われないから、偶然か、もしくはレスカスが同じフランス系の山口を好んで受け入れたのかもしれない。
山口は、日本人建築家としては辰野金吾や小島憲之や妻木頼黄と並び海外留学の第1期生に当たるから、三菱は当時のトップクラスの日本人アーキテクトを入社させたことになる。もっと正確にいうと、辰野のイギリスからの帰国が明治16年、小島と妻木のアメリカからの帰国がそれぞれ14年、18年であるから、実は山口こそ小島と並び日本最初の留学帰りのアーキテクトであった。
三菱の創業者岩崎彌太郎の何でもトップを目指さなければ気の済まない性格が、たいして仕事があったわけでもないのに、まずレスカスを、次いで山口をとったのであろう。
そのせいか、レスカス同様山口も、三菱でさして仕事をするチャンスはなかった。
入社の年に、大阪と函館の支店と付属倉庫や橋梁の設計を手がけただけで、大阪と函館の支店はレスカスの下で担当したことになる。
函館支店に見るかぎり、山口の腕が必要なレベルの仕事はこの時期の三菱にはまだなかったと考えていい。
そのせいか、山口は三菱を去り、明治18年4月、文部省に入り、文部省直轄の帝国大学(理科大学)はじめ各地の高等学校(一高ほか)を手がける。現在、山口半六は、明治期の高等教育施設の基礎を築いたアーキテクトとして近代建築史上に名高いが、その前に短期間ながら三菱時代が隠されているのである。
このように明治11年に三菱に地所係営繕方が設けられ、レスカスが関係し、山口半六が働いたが、明治18年までは三菱の名にふさわしいような成果もなく終わった。そして同じ年、創業者の岩崎彌太郎は没している。
兄の彌太郎の後を継いで社長となった弟の岩崎彌之助は、明けて明治19年、ー大建築事業をスタートさせる。兄が広大な敷地を手に入れ、庭だけをつくって逝った深川の屋敷に本格的な西洋館をつくろうというのである。
この任に選ばれたのがかのジョサイア・コンドル(Josiah Conder)にほかならない。彼こそ、レスカスなどの渡り鳥的外国人建築技術者の時代を終わらせた張本人で、本当のヨーロッパのアーキテクトであった。明治10年に明治政府に招かれて来日し、工部大学校造家学科(現東大建築学科)の初代教授として辰野金吾、曽禰達蔵ほかの学生を育てる一方、明治の新政府を飾るべく上野博物館(明治14年)や鹿鳴館(明治17年)を完成させ、明治17年には工部大学校教授の席を弟子の辰野に渡して官を辞した。明治19年に岩崎家深川別邸の仕事を引き受けた頃は、政府の新設部局の臨時建築局に再び雇い入れられてはいたものの、臨時建築局のリーダーシップはドイツ人建築家のエンデ、ベックマンに奪われ、いってしまえばヒマな時であった。
しかしコンドルは、レスカスや山口とはちがい、三菱に雇われたわけではなく、一建築家として仕事を引き受けただけである。この段階の彼を三菱のアーキテクトの中に数えるわけにはいかない。
藤本壽吉の入社と
岩崎家深川別邸
深川別邸の建設のため、コンドルを支えるべく三菱に入ったのは建築家の藤本壽吉だった。明治19年10月28日に入社した。安政2年、大分の中津に生まれ、明治13年、コンドルの門下生として工部大学校を終え、工部省に入って文部省(明治14年)の本庁舎を手がけ、17年には宮内省に移って箱根離宮(明治19年)を担当し、その完成後、三菱に入ったのである。
なぜ三菱が藤本を選んだのかについては師のコンドルの推薦と考えやすいが、こと藤本に関してはちがうと僕は考えている。なぜなら、コンドルとは別の筋で彼は三菱との縁がもっと深いのだから。
福沢諭吉の全集をめくっていて、何箇所かに藤本の名前が現れて驚いたことがあるが、彼は福沢と同藩の出で、親族であった。上京して入学したのは慶応義塾だし、工部大学校に進んでから学生時代に手がけた処女作は慶応の塾監局(本部)にほかならない。さらに慶応関係では、演説会場として明治開化史に顔を出す明治会堂も彼の設計である。藤本のバックには福沢がいた。
一方、当時の三菱も人材面では福沢に全面的に依存し、彌太郎、彌之助兄弟を支える“三菱の大番頭”の川田小一郎も荘田平五郎も慶応の福沢の弟子であり、彌太郎の息子の久彌も慶応に学び福沢の許で教育を受けている。
藤本の三菱入りは、コンドル筋よりも福沢筋のほうが強かった、と僕は考えている。
当時の工部大学校の卒業生は、卒業後7年間は官庁で働くことを義務づけられているが、藤本はその義務期間を終えると同時に三菱入りしており、もしかしたら、そういう約束が福沢筋ですでにできていたのかもしれない。
というといかにも藤本はコネで入っただけみたいだが、実力も十分備わっていた。証拠もある。たとえば、日本人建築家としてはじめて中央官庁(文部省)を手がけたのは彼だし、立派な宮廷建築(箱根の堂ケ島離宮)も経験しているし、大規模な赤煉瓦造り(慶応塾監局)も仕上げている。
1年先輩の曽禰達蔵も次のように回想している。
「氏は其学生時代から学力優秀を認められ、優等な成績を以て卒業したる人であった。氏は在学の実修期中コンドル先生が設計の私立訓盲院の製図を補助し……唯一人現場監督として現場に出張して指揮していた。……氏の建築中重要作品としては汐留蓬莱橋際に立ちたる煉瓦造2階建外面塗装の十五銀行であった。当時余輩を驚ろかしたのは十五銀行は銀行中の大銀行であり……之を学校出たての青年建築家に託する依頼者の度胸と何の躊躇する所もなく之を引き受けたる藤本氏の自信の強さとであった。……氏に就いて更に驚ろいたのは一躍宮内省の技師格となり、箱根堂ケ島の木造2階建離宮を設計し且つ自ら実地監督の任務をも兼ねたのである。……抑も氏が実地の経験未だ少なき青年の身を似て十五銀行と云ひ、堂ケ島離宮と云ふ、斯かる重要建築を設計するに至ふるは有力なる推挽者(福沢諭吉、藤森註)のありしに基くは言ふまでもなきが、之に応じて当時に於ける満足の成績を挙げたる氏の技倆は実に見上げたものであった。」
(『建築雑誌』 Vol.50 No.618)
いくら早逝した後輩のこととはいえややほめすぎのきらいもあるが、これまで日本の近代建築史の上で藤本壽吉はまったく語られていないから、僕も曽禰に負けずに以下ほめる。
明治19年に三菱に入社したときの藤本の日本人建築家の中でのランキングはどのあたりだったかを計ってみよう。
それには他の有力者がどの位の作品完成実績を明治19年までに持っていたかを調べればいいが、まず辰野金吾を見ると処女作の銀行集会所(明治18年)と鉄道局(明治19年)の2件。片山東熊は北京の日本公使館(明治19年)の一作のみ。曽禰達蔵はまだ自分の責任で手がけた作品なし。山口半六はすでに述べた三菱の簡便な支店建築をレスカスの下で仕上げたほかに東京師範学校と高等商業学校のふたつでいずれも木造である。妻木頼黄はまだ作品なし。
こう書き比べてわれながら驚いたが、当時一番実績のあった辰野金吾と山口半六ですら2作そこそこというときに、藤本は、慶応塾監局はじめ文部省、十五銀行、明治会堂そして堂ケ島離宮といずれも目立つ大規模な作品を5作もものにし、辰野をはるかに凌いでいた。曽禰の驚嘆は本当だった。
藤本壽吉の三菱入りは、福沢筋の深い縁故に加え、こうしたナンバーワンの実績もあずかって大きかったにちがいない。当然、入社してからの三菱内での扱いもその実績と実力にふさわしいもので、そのことは給与に端的に反映している。明治19年末の三菱社員のランキングと給与を見てみよう。
川田小一郎 管事 百圓
莊田平五郎 同 同
吉永 治道 副支配人 五拾圓
萩 友五郎 同 同
二橋 元長 同 同
藤本 壽吉 建築係 百五拾圓
(『三菱社誌第13巻』)
川田小一郎、莊田平五郎といった大番頭に続いてナンバー6に付けているだけでなく、給与面だけみると実に川田、莊田を抜き第1位である。技術系としては破格の扱いにちがいない。重い扱いを受けていたことは、岩崎彌之助の書簡にも見えていて、そう多くもない彌之助の書簡中に二度登場する。たとえば、
「……藤本氏も先達てより大病に罹り……漸く出院致候得ども頗る相よはり、昨日海浜へ出懸候」(明治22年7月、彌之助よりロンドンの莊田宛。『岩崎彌之助傳』下)
さてこうした重い扱いを受ける藤本の仕事ぶりは実際どんなだったんだろうか。すでに述べたように、社外のコンドルの設計になる深川別邸の建設を社内でサポートするのが任だが、具体的には設計の補助と現場監理のふたつを行っていたことが曽禰達蔵の回想で知られる。
「……氏は堂ケ島離宮の建築を終るや直ちにコンドル先生の設計に係る深川清澄町の岩崎男爵の有名なるチュードル式別荘建築の現場主任となり傍ら不足の図面作成を補助した。主任と言へば斯かる重要建築の常として多数の助手を要するものなるが余の聞く所と推知する限りに於て誰も助手らしき人は居らず唯一人堂ケ島離宮建築の時殆んど唯一の頼るべき助手として傭ひたる大工上りの老功者1人と実地には経験少なきも忠実なる現場掛1人を此建築場にも連れ来り股肱として居たやうであった。」(『建築雑誌』 Vol.50 No.618)
大工上りの老功者と忠実なる現場掛が誰かはわからないし、果たして地所に雇い入れられたのかそれともこの現場限りのことだったのかはわからないが、このふたりがその後の地所の建築技術陣の形成のもとになった可能性もある。
ふたりの徒士を従えた一騎当千の勇者藤本壽吉の活躍により明治22年ついに深川別邸は完成する。
天皇家や宮家や官邸を除くなら、つまり民間人の洋館としては日本で初めて本格的なヨーロッパ様式に基づいてデザインされており、明治前半におけるひとつの“華”とも呼べる建物であった。スタイルはそれまでの民間の洋館に一般的だったコロニアル風を離れ、本格派のイギリス系の赤煉瓦建築となっていて、より詳しくいうならエリザベサン様式、ジャコビアン様式、17世紀アン女王式を混ぜたヴィクトリアン建築である。
明治22年の記念碑的な住宅建築の完成の後、もしくは完成と相前後して藤本壽吉は倒れた。先に引いた彌之助の手紙に「藤本氏……大病」とあるように肺を冒されていたのである。一騎当千の無理が病を急進させたことはまちがいあるまい。
この仕事の完成を見届けると藤本はその年の内の10月に三菱を退社し兵庫県の須磨で療養生活に入るが、翌明治23年8月没した。もし藤本が元気であれば、地所の設監部門はこの人によって体制が固められ、明治・大正と永くリードされたにちがいないが、それはかなわなかった。
僕は早逝した彼のことを惜しみ、少しでも知りたく思い、できれば遺族の手がかりでもと願い、十数年前、埋葬されたという神戸の寺に墓探しに出かけたことがあるが、すでにお寺が消えていた。
以上、レスカス、山口半六、藤本壽吉と続くのが地所の本格的スタートに先立つ前史の時代である。