2020年夏、三菱地所設計創業 130 周年を記念して、「目抜き通り」をテーマにした連続レクチャーを開催しました。5 人の識者が、5 つの街の目抜き通りについて語ります。
街をつくる建物とはどのようなものか。もちろん街が建物をつくるということでもある。いずれにせよ相互に不可分なものとして考えなくてはならないとすると、ひとつの建物の効果を期待する射程として、漠然と街や都市を捉えたのでは広すぎるのではないか。「向こう三軒両隣」よりも少し広く、「目抜き通り」くらいの範囲で、具体的に街と建物の両者を語る。そして、長い歴史をもつことが多い目抜き通りは、同時に現代社会の中心地でもあるだろう。街と建物、歴史と現在、それぞれの両輪をまわしながら未来を見据えていく。
企画:伏見唯/建築史家・編集者
東京大学大学院
新領域創成科学研究科 特任助教
三浦 詩乃
MIURA SHINO
[モデレーター]
伏見 唯 建築史家・編集者
[イベント担当]
大橋 良之介 三菱地所設計 都市環境計画部
伏見:通りは多くの場合、行政の管轄であるが故に、法律やシステムの問題が大きく関わってきます。第3回は、整備の「デザイン」と管理・活用の「マネジメント」を一体的に捉える「ストリートデザイン・マネジメント」を研究されてきた三浦さんに、ニューヨークの歴史とパブリックスペース戦略について、マンハッタンの目抜き通り、ブロードウェイ(Broadway)を題材に語っていただきます。
web上で「New York City」と検索すると、
摩天楼が立ち並ぶ写真などが大量にヒットします。
このようなイメージが定着している
街のアイデンティティはどこにあるのか、
目抜き通りが果たす役割とは何かを考える上で、
まずは街の成り立ちから見ていきます。
❶ 誕生
ニューヨークのはじまりは、マンハッタン南端のウォール街(Wall Street)。現在の「バッテリーパーク(Battery Park)」あたりから、北の先住民地区へと伸びる道が現在のブロードウェイです。ニューヨークはグリッドの街区というイメージが強いと思いますが、そこを斜めに走るブロードウェイは、グリッドが敷かれる前の時代に自然とできた道です。ここから現在のニューヨークの姿になるまでを7つのフェーズに分けて整理します。
❷ 市域の拡張とグリッド街区の導入
1609年に東インド会社の交易が始まり、1780年にアメリカ合衆国が建国。金融の中心地として多国籍な街、ニューヨークは発展していきます。その後1800年代から起業家が資金提供をして、半島は東西に埋め立てられ拡張。そしてさらなる成長を見越して、ウォール街より北にグリット状の街を建設し、1から12番街までの整備が計画されました。
❸ セントラルパーク開園
ここまで東西南北、水平方向に拡張してきた街が、1853年のニューヨーク万博に出展されたエレベータ技術により、垂直方向にも拡張し、摩天楼が発展します。また1873年には、当時の土木技術を結集させてセントラルパーク(Central Park)も開園しました。
❹ ミッドタウン地区の発展
1904年には地下鉄が開業し、ミッドタウン(Midtown)側も市街化する中、昔ながらの道であるブロードウェイと、ロウアーマンハッタンとセントラルパークを直線でつなぐ5番街が存在感を高め、目抜き通りとなります。1903年と1916年の写真を比較すると、約10年で5番街を走る車両が増加しています。この頃からフラットアイアン・ビルディング(Flatiron Building、1902年竣工、高さ87m)をはじめとしたビルのさらなる高層化が実現し、開発の度に高層ビルの高さの記録が更新されていきました。そんな中、ウォール街にあったエクイタブル・ビルディング(Equitable Life Building、1870年竣工、高さ40m)が周囲の日照確保の観点から問題視され、過密になっていた5番街の民間協会が建築規制を提言。日照に配慮するゾー二ング規制が策定されたことで、ウェディングケーキ型の高層ビルが立ち並び、あのスカイラインを形成するようになります。
❺郊外×自動車の近未来年像
1900〜30年代、ニューヨーク市の人口は10年ごとに100万人規模で急増。自動車の普及もあり、高密なマンハッタンではなく、郊外に新たな都市を開発する流れも出てきます。象徴的なのはゼネラルモーターズが1939年のニューヨーク万博で発表した未来都市構想「フューチュラマ」。日常の営み、そこにある人々の姿よりも、テクノロジーベースで描かれた街の姿に当時の人びとは興奮しました。この構想は現在のアーバンデザインと自動運転車等の新技術の関係性を語る議論でも引き合いに出されます。こうした都市構想のイメージ共有と、ロバート・モーゼス(1888-1981)による1920年代の実際の道路交通・公園のインフラ整備により、郊外化が進みます。
❻ 都心市民のためのパブリックスペース保全・創設
戦後、舞台はマンハッタンに戻り、歴史的建造物の価値や地域コミュニティの保全に市民の目は向けられます。モーゼスと、『アメリカ大都市の死と生』で知られるジェイン・ジェイコブズ(1916-2006)が闘った時代ですね。前の時代からの反動で、大きなものより小さなものへ。1960年代、「スモールアーバンスペース」と呼ばれる小規模でシンプルなスペースが生まれます。多くの市民の生活圏内にはセントラルパークのような自然を感じられる場所がないという提議に対して、「ポケットパーク」と呼ばれる、質の高い小さな公開空地が街中に散りばめられていきます。小さな空間で憩う人びとの姿そのものが景観となり、街の価値になる。これは「プレイスメイキング」と呼ばれる概念として発展します。今、この東京・丸の内に導入されているストリートパーク、アーバンテラスにもつながっていく話ですね。
撮影:三浦詩乃
❼ パブリックスペースの活用と開発の相乗効果
1970〜80年代になると、より歩行者目線の施策が強化されます。この頃は、民間による開発が進む一方、行政が財政難に。民間が隣接するパブリックスペースも面倒をみることで、行政はその開発に対してインセンティブを与えていくという、今のエリアマネジメントの手法が確立します。
2000年代に入ると、ニューヨーク市の交通局長ジャネット・サディク=カーン氏の著書『ストリート・ファイト』に記される時代になります。実はその翻訳書を9月に刊行予定で、今日の内容と重なるところも多く、ぜひお手に取っていただけたらと思います。2001年の9.11テロ直後に就任したマイケル・ブルームバーグ市長のもと、パブリックスペースの活用と開発の相乗効果を狙った施策が打たれたわけですが、2009年の「プラザ・プログラム」(地域の民間組織が主体となって広場化する制度)や、貨物列車の廃線を公園に再開発したハイライン、2010年のブルックリンブリッジ・パークなどのプロジェクトが成功し、この流れは他の地区にも発展。また、2013年のハリケーン被害では、水際エリアに浸水被害が見られたため、災害対策も開発に組み込まれました。元々ニューヨークは牡蠣養殖が盛んだった場所で、消波機能を兼ねたそうした事業の再興など、民間からも色々なアイディアを吸い上げて施策に落とし込む動きがロウアー・マンハッタンで起こりました。
ニューヨークのアイデンティティについて振り返ると、「地形(島や港)×開発地」「資本主義の中心地」「密度」「市民・文化の多様性」の4層で成り立ちます。これを生物に例えると、グリッドの街割という「DNA」に対して、今の密度ある摩天楼が「細胞」に置き換えられます。細胞の拡張につれ生まれる格差や衛生、防災などの課題に対して、パブリックスペースは「免疫」のような働きをします。新しいパブリックスペースのあり方をデザインすることで、既存の街並みを活用しながら新しい免疫機能をコーディングする。この施策の先駆けとなったのが、ブルームバーグ市長です。
撮影:三浦詩乃
プラザプログラム:タイムズスクエア(最初の広場群の1つ)
出典:NYC DOT Befoe and After: Broadway- Times Squae2009
現在のユーザーにとって、 適正な空間比率に戻す NY:62%公共交通+徒歩+自転車 35%自動車
ニューヨークで多くの功績を残し、大統領選にも出馬経験のあるブルームバーグ市長は、2002〜12年の任期の後半に策定した長期計画「PlaNYC(プランワイシー)」では6つの柱(土地、水、交通、エネルギー、空気の質、気候変動)を掲げ、パブリックスペースの中でも大きな割合を占める街路の見直しを、交通局長サディク=カーン氏をブレーンに進めました。最難関と言われながらも最初にやり遂げたのが、ブロードウェイに面するタイムズ・スクエア(Times Square)の広場化です。目指したのは、「現在のユーザー(交通手段別利用者)比率にあわせ、空間も適正な比率に戻す」こと。歩車共に危険だった状況を打開し、メディアでも多く取り上げられたこの成功事例をもとに策定されたのがプラザ・プログラムです。地域から申請された車道・駐車帯などを交通局が簡易的に歩行者空間化し、可動イスなどを設置。利活用・メンテナンスも地域住民や事業者主体で行います。まずは素早く簡単に安く仕上げ、地域の合意があれば恒久化していくというプロセスです。その整備効果は「オープンスペースの確保」「交通円滑化」「コミュニティの結束」「前面小売店への経済効果」の4つ。現在市内70箇所以上の小広場が完成しています。
もうひとつ、街路の改革を象徴的するのがシェアプログラム「シティバイク」です。アメリカでは、女性や子ども、高齢者の自転車利用は多くはありませんでした。しかし、シティバイクを約300mごとに設置することで徒歩と公共交通のギャップを埋め、ニューヨークの街を様変わりさせました。実際に南北の通勤にも多く活用され、近隣の不動産へのアピール効果もあります。また「FRESHプログラム」も注目です。格差問題対策として、健康に配慮した食品を販売する店舗を沿道に設置することへの減税、開発そのものにもインセンティブをつけるような施策です。このコロナ禍の状況をみると、そもそものアメリカの医療保険制度の課題もあり、施策としての即効性は提示できませんでしたが、医療分野にも都市計画が寄与できる兆しを感じられる取り組みです。
プラザの空間構成
①歩行者空間化:車道,駐車帯,交通島対象
Broadway,Manhattan
ユニオンスクエアに接する1車線をペイント
②空間要素:ブライアントパーク型可動イス、車止めにもなる植栽鉢や大きな石
Fowler Square,Brooklyn
元々あった公園、 沿道一のカフェと 体的空間に
③利活用・メンテナンス:地域住民や
事業者が主体
Broadway,Manhattan
マーケット運営組織と連携
④プロセス:Quicker, Lighter, Cheaper. 路面はペイント仕上げ,地域の合意後、 高質化
Myrtle Ave Plaza,Brooklyn
民族多様性の強いコミュニティにふさわしい,シンボリックなデザインを採用
提供:三浦詩乃
マンハッタンを南北につなぐ道の中でも、本来ブロードウェイは最もウォーカブルな道です。しかし車優先の道としてその特性は活かされてきませんでした。そこで一部の車道を広場に転換する「Green Light for Midtown」プロジェクトで、ミッドタウン全体のウォーカビリティの見直しを行いました。タイムズ・スクエアの事例も単発ではなく、このようなプロジェクトと同時並行で進めることで相乗効果が生まれました。
車道を歩道化するプロジェクトにおいて、地域の合意形成は結構難しいハードルになります。車で乗り付ける人が街にお金を落とすというイメージが強いので、多くの指標をもとにその有用性を示す必要があります。例えば私が日本で関わったプロジェクトでは、交通手段別の消費額を調べたところ、バスや徒歩で来た人の方が多くお金を落としていて、街の方が持つイメージと差がありました。
ニューヨークでも、同様にさまざまなデータを示して合意形成を図っています。
また、ウォーカビリティをつくり出す要素として「ネットワーク」と「多様性」があります。地図上のグリットで比較すると、長辺が245mを超えるマンハッタンは、100m角の丸の内よりも歩きにくい街です。都市計画の理論では街区の一辺が180mを超える場合、通り抜け通路を設けることが推奨されていますが、斜めに走るブロードウェイがその役割を担っています。しかしブロードウェイとグリットとの交差点は複雑な形状となり、通行の危険度が高まっていました。そのボトルネックを解消するための施策が広場化だったわけです。さらに、各広場が多様性に富んでいるため、魅力的な目的地となり、歩く動機付けとなり、ウォーカブルなブロードウェイを支えています。
Google Earth Pro
そんなマンハッタンの2020年の今を切り取る形で最後に2つ、変化の兆しをお伝えします。ひとつは「E-コマースの台頭」。格式高く、景観も素晴らしい、旗艦店の立ち並ぶ5番街ですが、地価に見合う収益が得られないと判断した店舗が撤退しています。しかし昨年、ニューヨーク都市計画局がE-コマースが地上階の店舗に与える影響についてまとめたレポートでは「実店舗は廃れない」と結論付けています。1階飲食店の成長や柔軟な活用の増加、また、5番街から撤退した店舗も入れ替わりの激しい「ホット」な通りに移転する傾向も見受けられると報告されています。一方ブロードウェイの特定区間は常に空室率が低く、安定した通りであり、公園や広場を中心としたパブリックスペースの存在が大きな要因であるとしています。こうした状況を踏まえると、これまでの都市計画のような、高密度な都市の「ピーク時間に対応する空間デザイン」から、パブリックスペースを含む「街での過ごし方総体のリデザイン」への転換が持続経営の鍵となります。2ndプレイスと3rdプレイスの間のような2.5thプレイス、または情報空間とハイブリットの新たな4thプレイスといった概念も出てくるのではないでしょうか。
ふたつ目は言うまでもなく、コロナウィルスの影響。現市長のビル・デブラシオ氏は100マイルの街路を交通規制し、歩行スペースにしたり、飲食店に営業を認可しました。通常、条例作成に数ヶ月を要するところを、数日でガイドラインを整えるスピード感を持って取り組んでいます。日本はそれを後追いしている状況。これはロックダウンで交通量が減ったタイミングで、歩行者インフラを整える戦略でもあります。ソーシャルディスタンスを保つために、公共交通機関から自動車の利用へと逆行する動きもありますが、それを抑えたいという10、 20年先を見据えた施策です。
ニューヨークは世界が抱える都市問題を最先端で経験し、魅力的な空間の「光」と、その裏返しの課題やリスクの「影」を見てきた都市です。中でも目抜き通りであるブロードウェイは社会の変化を受け止め、課題に向き合う実験場の役割を担っています。日本では道を「賑わい」というコンセプトで語ることが多いですが、それだけでは語り尽くせない多くの要素がニューヨークにはあります。
2000年代、車社会だった街路のあり方をプログラミングし直し、1日のうち例えば4時間の交通ピーク時のための計画ではなく、残りの20時間の生活時間のための空間へとデザインしようとしました。では今後、2020年代はどうかというと、移動技術の発達、身体能力を補助する技術開発、高齢化、オンライン化・・・などの自らの「身体性」の拡張や制約に向き合い、どう選択していくか。新しいアイディア、それを支えるテクノロジーをいかに受け入れていくか。地域の思想が現れるのが街路空間でもあると思います。その思想によって他の街と差異化されていくのではないでしょうか。
出典:NYC DOT
質疑応答
伏見:プラザ・プログラムは、交通局主導だったから短期間で成功したのでしょうか?
三浦:まさにその通りで、ニューヨーク全域のグレーインフラを見直すためには、やはり交通局が動く必要性がありました。それまでは交通工学を学んだ局内の方が「ハイウェイ・キャパシティ・マニュアル」をもとに車中心の街路を築いていたのを、プラザ・プログラムでは都市計画やパブリックアートの専門家の知見も取り入れ、うまく連携できた事例です。共通言語が違う者同士が横並びで議論するためには、その計画の必要性を互いに理解することが重要です。その鍵となったのが「デザインマニュアル」でした。
大橋:今、推し進められている日本のストリートは「賑わせる」ことが目的である気がします。
本当の意味で街が生き生きとし続けるためには何か必要でしょうか?
三浦:日本の街路施策はアピール力に欠け、実際は素晴らしいところもあるのに国際的に知られていないと思っています。何をもって「賑わい」なのかという要素分解も必要です。人の量なのか、活動の多様性なのか。人が大勢いないと「賑わい」ではないのか?という話です。丸の内仲通りは公園機能を持たせることで、訪れる人の多様性を生み出しています。全長20kmもあるブロードウェイはすべての箇所が同時に賑わっているわけではなくて、賑わいは常に移動を繰り返し、エリアごとに補完しあって成立しています。
大橋:その視点で見ると、丸の内仲通りも神田あたりまで伸びたら、多様な空間のダイナミズムにつながっていくのではと感じました。
伏見:歴史を踏まえた上でさまざまなお話の中で、現場レベルでの戦略の重要性を感じました。プラザ・プログラムを日本に取り入れる場合も、これまでの縦割りではなく、横の繋がりをつくること。そのためには共通言語化のガイドライン整備も必要。文化的な効果と経済的な効果もデータ示していくことも必要。まさに書名にもある『ストリートファイト』のごとく、これらを実現していくためには様々な戦略が必要だと考えさせられました。
PROFILE
三浦 詩乃
みうら しの
東京大学大学院
新領域創成科学研究科
特任助教
1987 年生まれ。
東京大学大学院新領域創成科学研究科修了。横浜国立大学助教を経て、2020 年より現職。博士(環境学)。
専門は都市デザイン、公共空間のデザイン・マネジメント。
国際交通安全学会特別研究員を兼務。
日本都市計画学会論文奨励賞受賞。
おもな著書に『ストリートデザイン・マネジメント:公共空間を活用する制度・組織・プロセス』(共著、学芸出版社、2019 年)、訳書に『ストリート・ファイト/Streetfight: Handbook for an Urban Revolution』(学芸出版社、2020 年9 月刊行)。